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大河ドラマ2016年「真田丸」で平大岳(キャスト)が演じる「武田勝頼」とは。

大河ドラマ2016年「真田丸」でキャストの平大岳さんが演じる武田勝頼を紹介します。「真田丸」第1話「船出」の放送は2016年1月10日(日)です。

その第1話で登場するのは武田信玄の嫡男・武田勝頼です。

真田丸の動画配信「NHKオンデマンド」は長らく休止していましたが、2024年1月から再配信が行われていました。

この機会に大河ドラマの傑作作品「真田丸」の見逃し配信でお楽しみ下さい。

さて、真田丸の主人公・真田信繁は天才の父、秀才の兄、そして2人を追いかける好奇心と冒険心旺盛な次男坊・源次郎です。

真田丸は信州の小国の領主・真田家の物語です。武田家は甲斐の守護大名で真田家は甲斐の国衆で武田家に仕えています。

ですので武田家が滅びることは真田家の存亡にかかわることなんです。そして、武田信玄の息子・武田勝頼は味方の裏切りで亡くなります。

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「真田丸」で平大岳(キャスト)が演じる武田勝頼とは。

放送日:1月10日
視聴率:19.9%

真田丸1話は「船出」でした。

武田勝頼を演じるは平岳大さんです。真田丸第1話の「船出」は、勝頼の父、武田信玄亡き後の時代設定です。

武田勝頼の武田軍は最初は勝ち進むものの、やがて織田、北条、徳川に攻め込まれてしまいます。勝頼はまさに四面楚歌の心境です。

家臣もどんどん離れていき、父ならどうしただろうと思いながら砂上の城を見ている状況だったと思います。

第2話「決断」で勝頼の最期シーンがありますが、偉大なる戦国武将であり父である武田信玄の後を追う演技は見事でした。

武田勝頼とは?

武田勝頼(たけだ かつより)

甲斐の名君、ご存知、戦国武将の武田晴信(信玄)の四男として生まれました。

天文15年(1546年)~天正10年3月11日(1582年4月3日)享年37歳、武田氏は勝頼の祖父にあたる信虎期に諏訪氏と同盟関係にありました。

しかし、父の晴信は(信玄)父、信虎を追放する形で家督を相続し、諏訪氏とは手切となります。

母は信玄によって滅ぼされた諏訪頼重の娘で、「諏訪御料人」と呼ばれている女性です。

四男ですし母の実家である諏訪氏の名跡を継ぐということで、「諏訪四郎勝頼」と名乗ります。

そして、勝頼は信濃高遠城主となります。初陣は、永禄6年(1563年)の上野箕輪城攻めと言われています。

武田勝頼の家族相続は?

元亀4年(1573年)4月12日、信玄が西上作戦の途中で病死したため、武田姓に復し家督を相続し、武田氏第20代当主になります。

長篠の戦いで武田家は敗退し、勢力は縮小します。

運命の、天正10年(1582年)2月には、信玄の娘婿で外戚の木曾義昌が新府城築城のための負担増大への不満から織田信長に寝返えります。

勝頼は、外戚の義昌の反逆に激怒し、人質を惨殺した上で即座に木曾討伐の軍勢を送り出しますが、2月14日に浅間山が噴火します。

武田勝頼の最期は武田家の滅亡。

さらに武田一族の重鎮である穴山信君までも、勝頼を見限り、徳川家康を介して織田信長に服属を誓います。

これにより武田氏に属する国人衆は大きく動揺しました。

同年3月、勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡します。そして、小山田信茂の居城である岩殿城に向かいます。

しかし、信茂は織田信長に投降することに方針を変換し裏切ります。勝頼は進路をふさがれ、後方からは滝川一益の追手に追われます。

逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である「天目山棲雲寺」を目指しました。

しかし、その途上の田野でついに追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害するのです。

勝頼の「長篠の戦い」

天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで、若武者の焦りなのか、信玄譜代の部下の意見を聞かずに跡部など自分の意見に忠実な部下の意見を取り入れます。

乱世でなければ、2代目跡取りとして家を盛り上げていたでしょう。

ですが、時代は戦国時代の真っただ中で、部下たちの裏切りに遭い、信玄と幸隆が築いた絆も自ら無くしてしまいます。

いつの世も、2代目の優しさが裏目に出てしまいますよね。生まれたときからの名家の息子には共通点がありますね。

真田丸という1艘の船になぞられた真田家は荒波に向かって船出をします。大阪の陣までの長い航海です。2016年大河ドラマのオープニングです。

武田勝頼と真田信繁。

真田信繁は、父昌幸の影響を受けながらその知力を磨いていきますが、その全てを発揮し後世に彼の名前が残ったのは「大阪の陣」ですね。

元和元年(1615年)関ケ原の戦いから15年が経過しております。

豊臣家を滅亡に追いやった「大阪夏の陣」において、徳川家康を自害寸前にまで追い込んだ一人の武将がいました。

そうです、真田源次郎信繁(通称・幸村)です。

そして、この大河ドラマ「真田丸」では、この戦からさかのぼること33年前から始まります。

戦国時代の真っ最中で、各大名たちが勢力争いを繰り返していた時代です。

この時代では、武田家、上杉家、北条家、徳川家、織田家が真田家をどのように取り組むか?

弱小・国衆の真田家がどのような立ち回りで家を存続させるかが見ものです。さて、大阪夏の陣からさかのぼる事33年前の1582年は、「武田家滅亡の年」です。

甲斐の名門・武田家は、希代の名將・武田信玄の死後・息子の勝頼が家督を継いでいました。

武田勝頼は、北に上杉、東に北条、西に織田、南に徳川と有力大名に囲まれつつ、勢力挽回の機会をうかがっていました。

武田勝頼の部下が裏切る。

ところが、天正10年(1582年)1月、勝頼の義弟(信玄の娘婿)・木曽義昌が織田信長に寝返ります。

最大の危機を迎えた勝頼は、諏訪・上原城に御一門衆筆頭の穴山梅雪(あなやまばいせつ)、親類衆の小山田信茂筆頭家老の跡部勝資(あとべかつすけ)など諸將を集めて軍議を開きます。

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そこで味方のさらなる離反が明らかになります。(後ほど明らかに・・)跡部は義昌を打つ、梅雪は武田の本拠・甲斐の新府城に戻り、態勢を立て直します。

勝頼はそれぞれに耳を傾け、家臣を見回し、「安房守、お主はどう思う?」と意見を求められます。

真田昌幸は、「今は、いったん、新府に引くが上策かと存じます。潮を読むのでござる。」

今は引き時。力をためて、待つのです」勝頼は頼もしげにうなずきます。軍議を終え、昌幸は嫡男の源三郎信幸に命令します。

「源三郎。お前は一足先に新府へ戻れ。西も大事だが、南が心配じゃそろそろ徳川家康が駿河口に兵を進めてくるころだ」

真田信幸は「なるほど!様子、探ってまいります」と家康の動向を探りに行きます。

武田家と徳川家。

甲斐との国境あたりに布陣する敵情を偵察していた。旗に記された「葵」の紋は、徳川勢です。

信繁は、偵察に夢中になり、家来の矢沢三十郎頼幸の制止も聞かず、深入りしすぎました。案の定、敵兵にみつかり、危機一髪のところで逃げてきました。

信幸は、「誰の許しを得て、さように危ないところまで出向いた。勝手なまねをするな!」と、慎重になるように促しました。

信繁は、「皆、西の織田勢ばかり気にしているので、南のことが心配になったのです」と釈明します。父、昌幸の抱いた危惧と同じであった。

このくだりは三谷さんの脚色ですね。この信繁像の描き方が本当に気になります。

武田家の最期。

真田昌幸は重苦しい口調で二人の息子に告げるのです。

新府城を捨てることにした。「源三郎、源次郎、よいか。これは、わが真田家にとって未曾有の危機だ。一つ打つ手を誤れば、真田は滅びる。」と言います。

そして付け加えます「この苦難、われら一丸となり、どんなことをしてでもこれを乗り切る。こころしておけ。」と・・・

持仏堂では、勝頼が手を合わせて武運を祈っています。その後ろで、昌幸と穴山梅雪(ばいせつ)も手を合わせています。

勝頼は、「父上が築き上げたこの国を、わしは滅ぼしてしまうのか」昌幸は、「御屋形様にはわれらがおりまする」と励ますと、勝頼の表情がようやく緩むのです。

それからまもなく梅雪も織田に寝返えります。

そればかりか、徳川を武田領内に侵入するように手引きしました。またもやの寝返りに勝頼は軍議を開くがまとまりません。昌幸は「岩櫃城」に入城することを薦めます。

昌幸は、「岩櫃の守りはこの昌幸がすでに整え、鉄壁でございます」勝頼に岩櫃で力を蓄え、再起を図ろうと懸命に説得します。

勝頼は「分かった。岩櫃にいこう」と決心しますが、跡部と信茂から信玄の威光をとどめる甲斐の地を見捨てるべきではないといさめられ、勝頼は苦悩の色を浮かべます。

小山田信茂も勝頼を裏切る。

この小山田信茂も勝頼を裏切り、織田に寝返ってしまう。昌幸の薦める岩櫃城ではなく、岩殿城に跡部と小山田は向かうが、小山田の裏切りで岩殿城に入ることはできなくなりました。

勝頼の一行に動揺が走りました。後にした新府城は燃え、岩殿城に入城できないなら、勝頼に行く当てはありません。

武田勝頼は、「もうよい」と馬首を巡らせた。

天正十年というこの年、甲斐の名門・武田家の命運がつきようとしています。

天正十年と言えば、織田信長が明智光秀に本能寺の変で殺されますね。

日本史に残る織田信長の死と武田信玄の息子の死は同じく裏切りによってこの世からいなくなるのです。

まとめ。

真田丸は真田親子が真田家を戦国時代からどのようにして家を守り後世に残すかを三谷幸喜さんの独特な感性で描いています。

真田昌幸は源三郎と源次郎の二人の息子を当時の豊臣と徳川の2大勢力に分けて真田と言う家を守りました。

真田幸村は豊臣と共に歴史から消えていくのですが、長男の真田信幸は徳川と共に生きていきます。

その巧みな戦略はこの1話で武田家の武田家の2代目・武田勝頼が滅びた時に学んだのかも知れません。

真田幸村は池波正太郎の歴史小説「真田太平記」を読んでファンになりました。「週刊朝日」に1974年~1982年の8年間の連載でした。

この池波正太郎作は、真田家の面々や配下の忍者などの活躍をそれはそれは細かく描いています。忍者ヒストリアでも良いのではないかと思うぐらいです。

確か、女忍者の活躍が真田家を守っていましたね。

さて、このドラマの影響でしょう?文春文庫から火坂雑志さんの真田三代が発行になりました。この本も素敵です。

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