ユースケ・サンタマリアが2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」で演じた朝倉義景を紹介します。
明智光秀は斉藤道三と明智光安を失い、高政(義龍)によって明智荘を追われることになりました。
浪人として貧しい生活を強いられることになった明智一族は、やがて朝倉義景の元に身を寄せることになります。
さて、「麒麟がくる」の見どころは各俳優(キャスト)が演じる役の活躍ですね。
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明智光秀の美濃の国の上司である斎藤道三はけち臭いですが、新しい国づくりをしようという志のある戦国大名でした。
それに対して朝倉義景は京から追われた貴族や僧侶を招いて京に勝るとも劣らない都を作っています。
「麒麟がくる」では、飄々(ひょうひょう)としてつかみどころのない人物として描かれています。
つかみどころのない朝倉義景が明智光秀によってどう変わっていくのか?それとも変わらないのか?
演じるユースケ・サンタマリアさんも指摘していましたが、それが非常に期待でもあり、不安でもあります。
朝倉義景は異常なほど信長のことを嫌っていました。
生まれた時からお金も地位もある義景からすると、成り上がって自分と同じ地位にきたヤツは許せないと感じたのでしょうか。
「成り上がり者の信長ごときが」とドラマでも何度言います。しかも本当に嫌そうな顔でした。
⇒麒麟がくる26話「三淵の奸計」のあらすじ(ネタバレ)と感想
朝倉義景は1533年、孝徳天皇の流れをくむ朝倉家の10代目・朝倉孝景の長男として生まれました。幼名は長夜叉(ながやしゃ)です。
この時、父の孝景は40歳で、当時としては高齢。やがて1548歳に父親が亡くなると元服して、『延景(のぶかげ)』と名乗ります。
しかし足利将軍家と親しかったため、1552年には足利義輝から一文字取り、『義景(よしかげ)』と名乗るようになるのです。
さらには正室に、管領・細川春元の娘を迎え、幕府とのつながりを強くしました。
1565年に足利義輝が暗殺されると、義輝の弟・覚慶(足利義昭)は越前へ逃れます。これには義景の策略があったとみられます。
覚慶(足利義昭)は義景を介して上洛しようと考えていたらしく、元服して義昭と名乗る際も朝倉館で行っております。
しかし義景は加賀の一向一揆の平定や長男の死でそれどころではなく、やがて義昭は見切りをつけて織田信長を頼り、越前を去ります。
そのことの恨みもあってか、1568年に信長が上洛すると、義景は信長による上洛命令を拒み、1570年に信長軍によって攻められてしまいます。
しかし義昭が信長に反逆し、浅井長政が信長を裏切ると、義景は長政と同盟を結ぶことに成功します。
ところが、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が信長に敗北。
今度は反織田同盟軍でもあった武田信玄と協力しますが、協力するうえで様々な失敗を繰り返し、信玄に非難される有様でした。
やがて1573年に信玄が病死すると、信長は織田家の主力を朝倉に向けることが可能になります。
この頃には義景は遊びふけっていたこともあってか、家臣の信頼を失っており、小谷城の戦いでは暴風の中信長に攻め込まれて、砦から追われてしまいます。
さらに、撤退することを信長が予想していたため、信長軍の追撃を受けた義景軍は壊滅的な被害を受けます。
政務拠点である一乗谷城も捨てなくてはならなくなり、義景の代で越前の栄華は壊滅してしまいます。
逃走する家臣や兵が相次ぎ、朝倉義景は1573年8月20日、従弟に裏切られて自害を遂げるのです。享年41歳。
勇ましい武将たちが混とんとした時代を必死に生きる中、義景はそのスパイス的な存在です。
生まれながらに地位や名誉を得ていて、現状の生活に満足しています。異色のキャラクターですね。
しかし、他国の情勢もしっかり把握しています。それは今の生活を脅かされたくないからです。文化に重きを置き「一条谷の朝倉文化」を築きます。
ドラマでは飄々としてつかみどころのなさそうな朝倉義景です。
ユースケ・サンタマリアさんの話によれば、『世の中を変えようという気概はなく、ひたすら今の暮らしを続けたい人物』つまり余計なことを嫌う、事なかれ主義者とみていいでしょう。
もっとも、すでに義景のころの越前一乗谷は、京に負けずとも劣らぬ都(後に日本のポンペイと呼ばれます)を作っていました。
ですから、義景の代が最盛期とみてよく、それを手放したくないと思うのも仕方ないのかもしれません。
そんな中で美濃の戦いの敗将である光秀を、そう簡単に受け入れたりはしないと思います。
もちろん土岐源氏の子孫ということで多少一目は起きます。
が、実生活の面ではそれほど気を配らず、掘立小屋あたりに送るものではないかと。(予告編でわずかにその描写がありましたが)
光秀はやがて朝倉の領地の中で頭角を現し、義景にも一目置かれ、やがて朝倉と親しい足利と織田信長の仲を取り持つ役を務めるのですが、
『麒麟がくる国を作る』という志を持ち続ける光秀は、『すでに麒麟がくる国を作っている』義景にとっては非常にうるさい人間になってくるのではないのでしょうか。
光秀は道三の遺言でもあった『他国に攻められないため、皆が一つにまとまった大きな国』を作るための方法を義景に進言してくると思います。
しかしこれは、今の暮らしでよいと考えている義景にとっては迷惑な話です。
これがやがて、足利義輝が落ち延びてきたり、義輝が誅殺された時には足利義昭を受け入れたりするあたりで、光秀の考えについて再考していくのではないかと思うのです。
もっとも、安穏と暮らしていた時期が長く、しかも反信長同盟ができたころには、政務を放棄して遊びまわっていたという話ですから、
戦国大名としては力を発揮できず、やがて一乗谷で最期を迎えてしまう羽目になると思うのですが。
『なんだ、こいつは!?』と光秀や視聴者に思わせるのが今回の義景ということでしたが、
飄々としてつかみどころのない中で、老獪で器の大きい名君としての面を見せるのか、それとも遊び狂った暗君としての面が強調されるのか。
勿論最後は後者の面が強調されるため、やがて光秀は離反して信長に仕えることになるのでしょう。
1573年に武田信玄が亡くなり、足利義昭も京から追放されると、織田信長方は自分の兵の大半を朝倉家に向けることが可能となります。
そのなかで8月8日、信長は3万の兵を率いて越前に進軍します。
一方朝倉義景は、信玄からの数々の援助の申し出に対し、ろくに援助もできず非難される有様であったため、
家臣からの信頼を失っており、出兵拒否が相次ぐ中で義景自身が出撃する他なくなり、2万の兵しか集められませんでした。
12日の小谷城の戦い、13日の刀根坂の戦いと相次いで義景は敗北。
しかも刀根坂の退却戦の時に、戦意がほとんどなかった朝倉方は、信長の追撃を受けて3000人以上が戦死し、
その中には滅亡した斉藤家の斉藤龍興も含まれていたといわれています。
これにより、朝倉方の直属軍勢はほとんど壊滅し、義景の手勢は500人程度しかいなかったといわれています。
15日に一乗谷城に逃げ帰った義景は、すでに信長と内通していた従弟の朝倉景鏡によって、越前北部の大野郡に行くよう勧められます。
そして義景は、一乗谷を捨てて落ち延びるのです。
この時に備えて、あらかじめ兵士たちに休息をとらせていた信長は、18日に一乗谷の市街地を制圧して焼き払ってしまい、
ここに朝倉の栄華は壊滅したといっていいでしょう。
朝倉の政務拠点である一乗谷には、京から追われた貴族や僧侶が集まり、大きな一代文化圏を築いていたのですが、
織田方の柴田勝家によって居宅や神社仏閣は全部燃やされ、三日三晩炎が絶えなかったといわれております。
一乗谷城を亡ぼされた義景は、従弟の景鏡を頼ろうとしますが、すでに景鏡は裏切っており、仮の宿所として指定された六坊賢松寺に200の兵で攻められます。
最期を悟った義景は、近習らが奮戦・討ち死にする中で自害。景鏡は義景の首を持参し信長に降参しました。
辞世の句は『かねて身の かかるべしとも 思はずば 今の命の 惜しくもあるらむ』つまり「こんなはずじゃなかった」ということなのでしょう。
いよいよ光秀第二の主君である朝倉義景が、大河ドラマ「麒麟がくる」越前編に登場します。
光秀が落ち延びたころには、義景率いる越前は一乗谷に栄えている都を築きます。
ルイス・フロイスに「日本において最も高貴で主要な国のひとつであり、五畿内よりも洗練された言語が完全な形で保たれていた」と言われていたのです。
ですが、それがやがて信長によってすべてなくなってしまうのですから、まさに諸行無常といったところですね。
どのようにして光秀と義景は主従関係を築き、どのようにして袂を分かつのか。ドラマの展開が楽しみです。
大河ドラマ俱楽部の管理人です。
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