大河ドラマ2020年「麒麟がくる」で滝藤賢一(キャスト)が演じる室町幕府最後の将軍・足利義昭を紹介します。
織田信長の傀儡ながらも、室町幕府最後の将軍となります。
やがて信長との対立から京を追われながらも、最後には秀吉政権の下で高貴な家柄として生き残る足利義昭です。
背腹定まらないながらも、最終的には自身の権力を死守するため信長に反旗を翻し、松永久秀らとともに織田信長に最後の抵抗を試みる役回りなのです。
僧侶から還俗して室町幕府第15代将軍となった足利義昭は当初、朝倉義景を頼んで京への上洛を目指します。
ですが、現状維持を望む朝倉義景は、関わり合いになると面倒と見たのか、義昭の頼みを断るようです。
そこで義昭は自分が頼った光秀を使い、織田信長を頼ることになるのですが、ここで明智光秀がようやく歴史の表舞台に立つことになります。
『貧乏公方』と呼ばれながらも最後は足利幕府将軍となり、室町幕府滅亡の元を作った足利義昭はどんな将軍だったのでしょう。
さて、「麒麟がくる」の見どころは各俳優(キャスト)が演じる役の活躍ですね。
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「今回、まだ僧侶である覚慶から演じられたのは大きかったです。義昭としての芝居のベースはそこにあると思います。覚慶時代はもちろん、将軍になっても、優しさ・まっすぐさ・純粋さで戦っていきたい。弱い立場の者に寄り添う純朴な義昭を演じていきたいと思っています」(滝藤賢一)
足利義昭は信長に戦を仕掛けますね。光秀は戦をする将軍から離れいきます。
「摂津晴門は、本当に憎たらしいやつですね(笑)。しかも片岡鶴太郎さんの芝居が、それを何倍にも膨らませている。『こいつウソをついているな』とわかっているけど、摂津がいないと幕府は動かないから何も言えない。こういう関係って、今の世の中でもある気がするなぁ」(滝藤賢一
⇒麒麟がくる29話「摂津晴門の計略」のあらすじ(ネタバレ)と感想
⇒麒麟がくる27話「宗久の約束」のあらすじ(ネタバレ)と感想
「光秀に、将軍という大任が自分に務まると思うか?と聞く。しかも、死ぬのが怖いと弱さもみせる。そんなこと、ふつう初対面の人に言わない。きっと覚慶は、光秀に語りかけているようで、実は三淵と細川に聞かせているような気がするんですよね。俺に将軍なんて無理だよって」(滝藤賢一)
天才と呼ばれている織田信長に対して、無能と呼ばれている足利義昭ですが、実際のところはどうだったのでしょうか?
元々は室町幕府第12代将軍・足利義晴の次男として1537年12月15日に生まれ、家督を相続する候補者からは外れて出家の道を選んでいました。
出家時の名前は覚慶。
興福寺において仏道に励み、僧都として僧たちの管理者となっていたから、僧侶としては有能だったのは確かですね。
高僧そのままの人生を終えるはずでしたが、転機が来たのは1565年の永禄の変です。
兄の足利義輝の暗殺によって義昭も捕縛されて監視されますが、細川藤孝や三淵藤英らによって脱出します。
還俗して義秋、次いで義昭と名乗ります。
麒麟がくるの義昭は、貧しき民を助けたいと願う僧侶・覚慶の時代からその人物像が描かれています。
京の町を牛耳る三好家、および松永久秀に不満を抱いていた義昭は、当初は朝倉義景に頼ることになるのです。
この時当時朝倉の家臣であった光秀と出会うのです。
そして明智光秀を介して、三管領である斯波氏の有力家臣であった織田信長と知り合います。
そして信長と共に京に上洛。
この時に義昭は信長に礼として管領・副将軍の高い官位を与えたのに対して信長は辞退し、代わりに堺の支配権を求めます。
義昭は何と無欲なと喜んで了承した(実際の信長は大欲張りだったのですが)エピソードは有名ですね。
しかし幕府再興を願う義昭と、武力による天下統一を狙う信長との対立は悪化し(光秀はおそらくどちらにつくか相当迷ったでしょうが)、
義昭は天皇の意向を無視したまま自分名義で反信長連合を作るための手紙を書き送ります。
場合によっては信長が京から追放されるか討たれるかの寸前だったから、歴史に”もしも”はありませんが、義昭は京を治めることだけはできたかもしれません。
しかし信長は頑張り抜いて反信長陣営を各個撃破。
武田信玄の死も相まって反信長連合は事実上壊滅します。
義昭は1573年、朝廷への礼がなってないことを名目に信長に京から追放され、ここに室町幕府は滅亡します。
それでも武田勝頼・北条氏政・上杉謙信を中心に信長包囲網を結成しようとします。
ですがうまくいかず、1582年に本能寺の変で信長が光秀に討たれ、その光秀も山崎の合戦で秀吉に討たれると、
秀吉に取り入ることで、ようやく京都へ戻る算段が付きます。
1587年、ようやく足利義昭は京に戻り、1588年に将軍職を正式に辞職して(この時、室町幕府は正式に滅亡したとも言われます)再び出家し、名を道休と名乗りました。
その後山城国1万石の領地をもらうことになり、朝鮮出兵では肥前国名護屋まで出陣するなど秀吉に重用されながらも、1597年8月、大阪城で亡くなります。
室町幕府将軍で一番長命な61歳でした。
やはり足利義輝と同じで、源氏の血を引く由緒正しい家柄でありながら、朝廷への態度が不誠実ということで、光秀は義昭に対し微妙な感情を抱くに違いありません。
後に足利義昭によって反信長連合ができて、光秀はどちら側につくか迷うことになると思うのです。
ですが、足利将軍の朝廷に対する態度が不誠実であったことが、織田信長による義昭追放の一因になったことからも、光秀が義昭追放を黙認する一因になってくると思うのです。
義昭の天皇家に対する比較的不躾な態度は、足利将軍には王者としての品格がなく、麒麟がくる世の中にできないのではないかという不安を、光秀に抱かさせることになると思うのです。
『お互い将軍親政の志を持ってはいたが、やがて現実の壁から袂を分かつ』
ドラマでは兄の足利義輝に興味を持たれた光秀です。
その伝で義昭も明智光秀に興味を持っていくと思われるのですが、彼の経歴と実力を知る中で、明智光秀が非常に頼れる存在になっていくのは確かでしょう。
ただ、最終的には光秀と義昭は袂を分かつことになるのですが、このプロセスがドラマではどのようなものになるのか、まだまだ想像がつきません。
光秀も義昭も将軍親政を理想と考えてはいると思うのですが、現実の壁の前に、2人とも考え方が違ってくるのではないかと思われるのです。
当初はお互い信頼している中でしたが、現状維持と事なかれ主義にふける朝倉義景を見て、足利義昭は愛想をつかします。
朝倉家は守護大名がそのまま戦国大名になった家ということもあって、足利家はそれ以前から朝倉家を非常に頼りにしていたものと思われます。
義景もまた、『義』の字を足利将軍家から賜ったわけですから、非常に義輝・義昭両方から信用されていたと考えられるのです。
しかしながら朝倉家は義景の時代になってから、政治をほっぽり出して遊興にふけるようになっていたのは確かです。
ドラマでも『今の暮らしを続けたい』。つまり天下を取ることよりも、現状を維持することに執着する朝倉義景でした。
ですから義昭を担ぎ上げて京上洛というのは、非常に面倒なことで、できれば関わり合いになりたくないというのが正直なところではなかったでしょうか。
(さすがに兄を失って居場所がなくさまよっている義昭には、同情で保護したようですが。)
そんな朝倉義景の体たらくを見て、義昭も義景は頼りにならないということで、明智光秀の仲介で織田信長を頼ることになると思われるのです。
当初は朝倉家を信頼していた義昭ですが、現状維持と遊興にふける義景を見て愛想をつかし、光秀と彼が一目置く信長に興味を持っていくのが事実だと思われます。
結局のところは、『利用しあう関係で、用がなくなったらお互いに切り捨てあい、敵対する関係になった』というのが本当のところだと思います。
義昭自身には何の力もなく、京へ凱旋するには信長の経済力と軍事力が必要でした。
織田信長もまた、自身が京に上洛して天下人として名をはせるには、義昭という担ぐ神輿が必要だったのは確かでしょう。
しかしながら実際に京へ上洛して政治をつかさどるようになると、幕府再興を願う義昭と、武力と経済力による天下を目指そうとする信長はだんだんと意見が合わなくなっていきます。
だんだんと織田信長は義昭の言う事を聞かなくなります。
殿中御掟を承認させて暗に義昭のことを批判していたりと、お互いに政治的対立が深くなっていたのは事実のようです。
そしてついには、義昭は自分の権威を介して、信長の追討を命じます。京上洛を果たした義昭にとって、信長はもう用済みなのです。
そして用済みなのは織田信長も同様だったようで、義昭を京から追放できたのはそれがあったからだとも思われます。
結局はお互い利用しあうだけの関係は、用済みになった時にすぐ切り捨てられてしまうのがわかりますね。
本能寺の変において足利義昭が黒幕だという説があります。
史実では否定されていますが、ドラマにおいてはこの説をとるのかどうかは分かりません。
将軍側近の武士として、細川家は足利家に一目置かれる存在であったのは事実です。
ただ、義昭の兄義輝は将軍親政を勧めようとするあまり、周りの言う事を聞かなくなってしまいます。
それがやがて永禄の変による義輝暗殺につながったのですから皮肉なものですね。
そして同様なことを、足利義昭もやってしまうものと思われ、それが細川藤孝と義昭が袂を分かつ一因になってしまうものと思われます。
『将軍が争うのをやめよと一言お命じにならねば、世は平らかになりませぬ』
ドラマでこの単純ながら的を得た心理を言ったのは光秀です。
だからこそ義輝も義昭も、将軍親政を必死に行おうとし、それが周りの離反をさらに招くという悪循環に陥ってしまうと思われるのです。
将軍側近である細川藤孝ですら、最終的には義昭から離反されてしまうという事実。
それは、変化の時代においては旧来の権威よりも、相応の経済力と軍事力が求められるということをつくづく痛感させられます。
1338年、足利尊氏が京都で創始し、約240年続いた室町幕府。足利将軍15代の系譜を紹介します。
初代・尊氏が多くの武将の支持を集めたのは、強いカリスマ性があったからです。
戦で自軍が橋を渡り終えた際、「負けて退去することはないから橋を壊せ」と命じ、士気を高めた逸話もあります。
それにしても足利幕府もその後の徳川幕府も15代で終わるのですね。不思議です。それでは足利幕府の系図を紹介します。
第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。
興福寺一乗院に入る。
義輝暗殺、義昭も捕らわれの身に。
還俗し、越前に移る。
信長と共に上洛。第15代将軍に就任。
三好三人衆が義昭を襲撃。二条御所に移る。
信長、比叡山を焼き討ち。
信長、義昭を追放。
本能寺の変が起こる。
大坂で死去。
義昭が豊臣秀吉によって京都に呼び戻された後、秀吉の話し相手兼1万石の大大名として、1597年にその生涯を終えるのは、光秀の死から15年後のこととなります。
足利将軍の職をはく奪され、秀吉に臣従しながら、どのような思いで自分自身と明智光秀を総括したのかは分かりません。
ただドラマでは『麒麟がくる』世の中を目指した義昭や光秀は、自分たちにその力がないことを痛感しながらも、次世代はそうはいかないという思いで諦観すると思います。
義昭が光秀とどのように意気投合し、麒麟がくる世の中を目指していくのか、ドラマの行方を待つと致しましょう。
物語当初では貧乏公方でありながらも最終的には信長によって担ぎ上げられた形とは言え、足利幕府最後の将軍に上り詰める足利義昭です。
しかしながら、天皇に対する態度があまりにもよくなかったこと、そして信長に反旗を翻したことによって最終的には京から追放されます。
おそらく信長の神輿あるいは反信長の神輿として準レギュラーになっていくのでしょうが、どのように権力に上り詰め、そして信長に反旗を翻すのか。
背腹定まらぬ人物とされている義昭を演じる滝藤賢一さんの演技力が試されます。今からとても楽しみですね。
大河ドラマ俱楽部の管理人です。
NHK大河ドラマをこよなく愛し毎週楽しみに視聴しています。
ただ視聴するだけでなく「あらすじと感想」を紹介しています。
でもリアルタイムで見ることができない時は見逃し配信で見たり
時々は歴代の大河も視聴しています。
管理人の大好きな大河ドラマをまとめていますので見逃し配信
と一緒に楽しんで下さい。
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