大河ドラマ2021年「青天を衝け」で草薙剛(キャスト)が演じた「徳川慶喜」を紹介します。
徳川慶喜は江戸幕府最後の第15代将軍として、大政奉還を行って260年続いた徳川幕府を閉じました。
戊辰戦争においては日本の国力をそがないためにひたすら恭順を続け、江戸の無血開城を導びきました。
無能ともとられますし、やることはやったともとられます。
政治家役としてのイメージは今一つない草彅剛さんですが、今回高度な政治判断をし続けた徳川慶喜をどう演じたのか?
「青天を衝け」では徳川慶喜をどう描くのか?大森美香さんが描く徳川慶喜を見ていきましょう。
さて、1万円札の渋沢栄一が主人公「青天を衝け」の成功ストーリーは観ましたか。
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草薙剛が「青天を衝け」で演じた徳川慶喜とは。
第15代将軍徳川慶喜
徳川斉昭の七男に生まれ、一橋家を継ぎ、徳川幕府最後の将軍へ。側近・平岡円四郎の目利きで渋沢栄一と出会い、財政改革に手腕を発揮した栄一を重用する。幕府終えんの時を迎えてからも、慶喜と栄一の厚い信頼関係は終生に及んだ。
かつてはSMAPとして歌と踊りを続ける傍ら、「いいひと」や「僕の生きる道シリーズ」で様々な「いい人」を演じ続けた草なぎ剛さん。
そんな草なぎ剛が、清濁併せ呑む必要のある政治家役を演じるのは結構珍しいことだと思います。
幕府のトップ15代将軍として、渋沢栄一にどのような影響を与えたのでしょうか?
徳川慶喜の誕生は。
徳川慶喜は1837年9月29日、江戸・小石川の水戸藩邸で父・徳川斉昭、母・吉子女王の七男として生まれました。
幼名は松平七郎麻呂(まつだいら しちろうまろ)です。
幼少期から聡明だったようで、普通武家の弟たちは他家に養子に行くのが普通だったのですが、徳川斉昭は後継ぎとしても考えていたようです。
しかし12代将軍・徳川家慶の意向を受けた老中・阿部正弘によって、御三卿・一橋家に養子に出されます。
それが1847年9月1日でした。12月1日には徳川家慶から一字をもらい受け、慶喜と名乗ります。
徳川慶喜の名シーン。
第9話の慶喜は謹慎中です。そして父・斉昭の死に目にも会うことができません。この謹慎中で父を思う草なぎ慶喜の演技に絶賛する視聴者が多くいました。
安政の大獄で慶喜は謹慎そして解除。
安政の大獄によって隠居謹慎処分をもらった徳川慶喜です。
⇒青天を衝け第9話「栄一と桜田門外の変」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
ですが、桜田門外の変の後、尊攘志士の力に恐れをなした幕府によって、1860年9月4日(旧暦)に謹慎を解かれます。
そして1862年、彼を強烈に推薦する薩摩藩主・島津久光や天皇の命令もあり、慶喜はまだ幼い第14代将軍・家茂の将軍後見職に就くことになります。
⇒青天を衝け第11話「横濱焼き討ち計画」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
(しかしこれは、無位無官の人間が幕府の許可なく公家と接近したことでもあり、幕府の力をさらに弱める一因にもなるのです)
慶喜は松平春嶽とともに、久光や公家から突き上げられる形で、文久の改革と呼ばれる幕政改革を行います。
京の治安維持にあたる京都守護職の設置、および参勤交代制の緩和(事実上の撤廃)、洋軍研究の推進、軍事改革などにあたるのです。
1863年に家茂が攘夷の決行に当たって天皇家と相談するため、上洛することになっていましたが、慶喜はこれに先駆けて上洛し、天皇家に政権担当能力がないことを見抜いたうえで、
『攘夷実行を含めた国政全般を幕府に任せるか』それとも、『政権を朝廷に返納するか』の二者択一を迫ります。
しかしこれは『攘夷実行は幕府が行え』『国政全般は幕府に任せるが、国事には天皇が命令することもありうる』という天皇側の答えに終わり、交渉は決裂するに至ります。
これに対し、攘夷決行が本心ではなかった慶喜は、幕府が攘夷しないように家茂の上洛を、病気を理由に急に辞めさせるなどするなど、したたかな面を見せつけます。
その一方で、公には攘夷をするように見せかけるため、横浜港の閉鎖などを行うのです。
慶喜の本心が本当はどこにあったのかは定かではありません。しかしこの時にはすでに、若き将軍に代わって事実上幕府の政治を動かしていたと思うのです。
それでも将軍になりたくなかったわけは、鎌倉幕府の北条氏のように、『表向き将軍を助ける建前はそのままに、実権をつかさどりたかった』のだと思います。
もともと奈良時代にできた律令体制はそのままに、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府と出来上がっていましたからね。
徳川慶喜の参与会議とは?
八月十八日の政変の後、慶喜は島津久光などの雄藩の藩主や、天皇や公家も交えて1863年の大みそかに、参与会議を開くことになります。
⇒青天を衝け第13話「栄一、京の都へ」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
慶喜をはじめ、島津久光、山内容堂、松平春嶽などが参与として、公武合体をどうするか、尊王攘夷をどうするか、幕府改革をどうするか話し合うものでした。
しかし長州藩に対する処分問題や、横浜港の閉鎖について、慶喜と雄藩の意見は合いませんでした。
それどころか参与の交流を深めようとした酒席でも、泥酔した慶喜が中川宮に対し久光、春嶽、伊達宗城を指さして、
「この3人は天下の大愚物・大奸物であり、後見職たる自分と一緒にしないでほしい」と暴論を吐いたため、機嫌を損ねた久光は完全に参与会議を見限り、幕府への協調姿勢を諦めたそうです。
⇒青天を衝け第14話「栄一と運命の主君」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
ドラマ後半で慶喜が一橋家の家来と一緒に「快なり、快なり」合唱する場面はまさに爽快でした。
春嶽や小松帯刀(薩摩藩家老)は仲裁しましたが、慶喜は幕府老中らとも対立をはじめ、老中・水野忠精(山形藩主)は「参与会議は天下の害物、むしろ廃するにしかず」とまで述べるようになったとか。
こののち、慶喜は1864年3月25日、将軍後見職をやめ、朝廷から新設の禁裏御守衛総督に就任し、江戸の幕閣とは独自の勢力を持つようになるのです。
⇒青天を衝け第15話「篤太夫、薩摩潜入」のあらすじ(ネタバレ)と感想。栄一改め篤太夫へ。
『貴人、情を知らず』とは、明治維新後に没落した幕臣たちが慶喜を批判して言ったものですが、生まれつきの殿様というものは、土壇場になっての感覚が常人と違うようです。
この時の慶喜は天皇を憚って攘夷の目的で横浜港を閉鎖するのですが、将軍になると開国に傾くようになるので、そのあたりの考え方の変遷をドラマではどう描くことになるのでしょうか。
(すでに薩摩藩は薩英戦争などから、今のままでは攘夷が不可能であることを知り、『大攘夷』すなわち『いったん開国し、西洋の技術と軍事力を吸収するだけ吸収し、諸外国と対等になったところで攘夷に打って出る』という考えに傾いたようですが)
京で新選組の「池田屋騒動」があったころ一橋慶喜の家老・平岡円四朗が水戸藩氏に襲われ暗殺されてしまいます。
平岡円四朗は実存した人物ですが生存中の資料はとても少なくそうです。青天を衝けでは堤真一さんが演じていてとても味のある演技をしています。
しかし、第16話「恩人暗殺」でドラマからも退場してしまいます。
⇒青天を衝け第16話「恩人暗殺」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
徳川慶喜、長州討伐への勅命。
第17話では日本幕末史の内戦「禁門の変」が勃発します。
禁門の変 は、攘夷派の長州藩と公武合体派の会津藩、薩摩藩を中心とした戦い。長州が京に進軍、御所を守る慶喜や会津、薩摩と激突し、戦いは1日で終わり、長州軍は撤退します。この戦いで、京都市中は大火災となりました。
⇒青天を衝け第17話「篤太夫、涙の帰京」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
徳川慶喜、天狗党討伐。
⇒青天を衝け第18話「一橋の懐」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
『京を守るのが自分の勤め、武装した天狗党は京に入れるわけにはいかない』と、故郷の水戸で決起した天狗党を切り捨てる決意を固めるのです。
徳川慶喜、15代将軍の誕生。
当時、13代将軍徳川家定は病弱で子供もいないため、一橋慶喜と徳川慶福(家茂)のどちらかを後継ぎにすべきだということでもめていました。
しかしながら一橋派の阿部正弘・島津斉彬が相次いで病死すると、井伊直弼が慶福を第14代将軍とし、徳川慶喜は将軍の座を逃します。
しかしながら最初から慶喜は将軍になる気はなかったようです。
「骨が折れるので将軍に成って失敗するより最初から将軍に成らない方が大いに良い」という手紙を父・斉昭に送っているようです。
やがて直弼が暗殺され、家茂も21歳の若さで病死すると、徳川慶喜が第15代将軍につくことになるのです。
⇒青天を衝け第21話のあらすじ(ネタバレ)と感想。「篤太夫、遠き道へ」
徳川慶喜の大政奉還。
慶応3年10月14日(1867年11月9日)。慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許するのです。
⇒青天を衝け第23話「篤太夫と最後の将軍」のあらすじ(ネタバレ)と感想。大政奉還。
徳川慶喜の明治維新。
明治元年(1868年)大政奉還の翌年薩摩と長州を中心とする明治新政府が樹立されました。
江戸は東京と名を変えました。
慶喜は旧幕府軍を率いて新政府軍と戦ったが、突然兵を残したまま大阪から江戸に退却しあっけなく敗北。
上野寛永寺で謹慎し、水戸に移り謹慎します。
⇒青天を衝け第25話「篤太夫、帰国する」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
草薙剛(キャスト)が「青天を衝け」で演じた徳川慶喜と渋沢栄一の出会い。
徳川慶喜と渋沢栄一との出会い。
渋沢栄一が一橋家の家臣・平岡円四郎の推薦で徳川慶喜と出会ったのは、8月18日の政変直後の1863年ごろだったと思われます。
⇒青天を衝け第14話「栄一と運命の主君」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
当時渋沢栄一は尊王攘夷運動に傾倒し、幕府を倒す計画すら立てていたのです。
ですが、一橋慶喜に対しては、公武合体派でありながら水戸徳川家の人間でもあり、尊王攘夷運動に理解ある人間として徳川慶喜に一目置いていたのだと思われます。
方や徳川慶喜は由緒正しい徳川家の生まれで、裕福だとは言え農民の生まれである渋沢栄一に対しては当初相手にする価値もないと考えていたと思われます。
ただ、その経済力や利発さ・合理主義を少しずつ買うようになり、農兵募集やパリ留学の許可を与えるようになると思われるのです。
のちに渋沢栄一は徳川慶喜に対して、
公は世間から徳川の家を潰しに入ったとか、命を惜しむとかさまざまに悪評を受けられたのを一切かえりみず、
何の言い訳もされなかったばかりか、今日に至ってもこのことについては何もいわれません。
これは実にその人格の高いところで、私の敬慕にたえないところです。
と評しています。
維新後の慶喜と栄一。
維新後の慶喜は隠居生活が続いていました。栄一は明治維新で慌ただしい日々を送っていましたが、栄一の心は慶喜が引っかかっていました。
慶喜のためにできることはないのかと思い、静岡に住む慶喜の元に向かいます。
そこで、慶喜は栄一にかけた言葉とは…
⇒第38話「栄一の嫡男」
いかがでしたか、草なぎさんが演じた青天を衝けの「徳川慶喜」でした。それでは草彅さんの他の大河出演と朝ドラについて又草彅さんの魅力を記した記事もお読み下さい。
⇒草彅剛が出演した「大河ドラマと朝ドラ」の作品名とキャスト名は。
また「青天を衝け」のキャスト一覧はこちらです。
草薙剛(キャスト)が「青天を衝け」で演じた徳川慶喜に影響を与えた人物。
徳川慶喜に影響を与えた人物としては、まずは父親であり、尊王思想を植え付けた徳川斉昭が筆頭でしょう。
しつけに厳しかっただけではなく、のちの戊辰戦争で徳川慶喜が新政府軍の錦の御旗を見て大阪城を脱出した背景には、自分が賊軍になることを非常に恐れたものと考えられるのです。
政敵であった井伊直弼には、安政の大獄の際に謹慎処分を受けるなど、快くは思っていなかったと思うのです。
ですが、「才略には乏しいが、決断力のある人物」と評価していたようです。
徳川慶喜と徳川斉昭。
「水戸の三ぽい」つまり「理屈っぽい、怒りっぽい、骨っぽい」を地で行っていたともされる慶喜の父・徳川斉昭。
父親として尊敬はしていたと思われるのですが、しつけはかなり厳しく、寝相の悪さを矯正するために枕の両隣に剃刀を置かれるほどでした。
「烈公」として名君の誉れ高かった徳川斉昭に対して、自分はそうなれないのではなかろうかというコンプレックスもあったと思われるのです。
徳川慶喜と井伊直弼。
慶喜の政敵であり、自分が将軍につくことを妨害したのが井伊直弼です。
ただ、井伊直弼は一貫した攘夷論者であり「外国人の説に感服して一歩ずつ譲歩するのは嘆かわしく」「皇国風と異国風の区別を弁えるべきである」と老中に意見を述べたという説もあるくらいです。
ですから、慶喜は直弼に一目置いていたのは確かであったといえましょう。
草薙剛(キャスト)が「青天を衝け」で演じた徳川慶喜に影響を与えた出来事。
徳川慶喜が大政奉還。
京都で独自の政治勢力を築いた慶喜は、禁門の変でも自ら敵と切り結ぶなど大活躍。
第一次長州征伐の間でも朝廷との交渉を取り持つなど政治奔走をしますが、第二次長州征伐で幕府が大敗した直後、第14代将軍家茂が病死。
本人は乗り気ではなかったのですが、その後釜として第15代将軍に就任することになるのです。
すでに慶喜の腹の中は、外国の圧力もあって開国(大攘夷であったかどうかは不明)に傾いており、フランスの大使であるレオン・ロッシュの支援を元にフランス流の軍事改革を推進。さらには幕臣の親戚の外国留学も奨励することになるのです。
しかしそれでも、薩長土肥をはじめとする討幕派の勢いを収めることが出来ず、慶喜は最後の切り札として、大政奉還を実行し、朝廷もそれを受け入れるのです。
慶喜は朝廷には政権担当能力がないことを見抜いており、雄藩との話し合いのうえで自らがトップとして政務をつかさどる意図があったといわれています。
この歴史的政権返上に、渋沢栄一がどこまでかかわるのかが、ドラマの楽しみであるといえましょう。
徳川慶喜と明治政府。
しかし、これに不満を抱いた薩長が1867年12月に王政復古の大号令を起こし、慶喜や幕府と親しい公家たちを追放。
さらに翌年1月には京での破壊活動を行うなどの挑発を繰り返します。
遂に慶喜は1868年1月3日、鳥羽伏見で新政府軍と激突します。
ですが、軍備の圧倒的な違いや、新政府軍が錦の御旗を掲げたこともあって、自らが『天皇に刃向かう賊軍』になることを恐れた慶喜は、鳥羽伏見の戦場に軍兵を置き去りにして大阪城・さらには江戸へと逃げ帰ります。
この慶喜の敵前逃亡について、理由は諸説ありますが、ドラマでは斉昭の『朝廷と幕府が対立した場合、幕府に弓引くことがあっても天皇に弓引いてはならない』
という言を取ることになると思われます。
『徳川慶喜公伝』で、慶喜は、伊藤博文からの維新時に尊王の大義を重んじたのはなぜかとの質問に、
「水戸徳川家では義公(徳川光圀)以来代々尊王の大義に心を留めていた。父なる人も同様の志で、自分は庭訓を守ったに過ぎない」と応えているようです。
しかしながら結局、慶喜は朝敵として追討の対象になったため、慶喜は勝海舟に恭順の意思と江戸攻撃の中止歎願を一任して、自らは上野寛永寺、水戸の弘道館、駿河の宝台院とひたすら謹慎。
それもあって、江戸は戦火を免れると同時に、慶喜は江戸幕府最後の将軍となるのです。
1869年9月にようやく謹慎が解かれると、慶喜は駿府改め静岡に移住し、貴族院議員になるまでは自分の趣味に熱中し、政治的野心を持つことはありませんでした。
地元の人からは『ケイキ(『慶喜』を音読みしたもの)様』と呼ばれて愛されたものの、渋沢栄一以外の旧幕臣とはほとんど会わず、『貴人、情を知らず』と陰口をたたかれたこともありました。
1902年に貴族院議員になった後、1910年に引退。1913年11月22日、急性肺炎を併発した風邪のため亡くなります。
77歳で、歴代将軍では一番長寿であったといわれています。
維新後の慶喜が渋沢栄一と会っていたことを考えると、維新後にも多分慶喜は登場するのでしょう。
その時に、戊辰戦争で敵前逃亡をした時の心境が語られるのかもしれません。
草薙剛(キャスト)が「青天を衝け」で演じた徳川慶喜の実績。
徳川慶喜の将軍職在任期間は。
青天を衝けの第21話で慶喜は15代将軍に就任しますが、将軍職の慶喜はたった1年の在任期間でした。
慶応2年(1866)年12月、征夷大将軍に就いた慶喜ですが、翌年の10月には「大政奉還」を上奏しています。
12月の「王政復古の大号令」によって将軍を辞任。慶喜は政治の表舞台からは排除されてしまいます。
これをきっかけに、旧幕府側と新政府側による「鳥羽・伏見の戦い」が勃発するこになるのです。
約1年という慶喜の在任期間は、歴代将軍の中で最短です。
2番目に短いのが徳川幕府を開いた家康の2年。対して11代・家斉はなんと在位約50年と、江戸時代の5分の1を占めているのですね。
徳川慶喜の評価(賛否両論)
慶喜ほど、その評価が二分される将軍もいないであろう。幼いころから「英明」と名高く、将軍就任を嘱望されていました。
実際、短い将軍在任中、優れた政治手腕を見せたが、退任後の「鳥羽・伏見の戦い」では、味方を置いて敵前逃亡をしてしまいます。
大阪城から江戸城に逃げ帰ったことで「暗君」とする声もありました。
一方で、この慶喜の決断によって多くの命が失われずにすんだと評価する説もあります。
そんな中、慶喜の家臣だった渋沢栄一は、慶喜の死後、幕末の国のかじ取り任された「最後の将軍」の伝記「徳川慶喜公伝」を刊行します。
そうです、主君の名誉回復に努めていたのです。
徳川慶喜は歴代将軍でもっとも長寿。
天保8(1837)年9月29日に、江戸・小石川の水戸藩上屋敷で生まれた慶喜は、大正2(1913)年11月22日、東京・小日向第六天町の自邸にて肺炎で亡くなりました。
76年と歴代将軍の中でもっとも長寿。30歳で将軍を辞しているため、余生はそれまでの1.5倍もの長さでした。
長寿2位には初代・家康が73歳でした。
最も短命だったのは7代将軍・家綱。家綱は、父・家宣の死去により3歳あまりで将軍に就任するが、在位約3年で早世しています。
徳川幕府歴代将軍在位。
- 徳川家康(いえやす):慶長8年 (1603年) 2月12日-慶長10年 (1605年) 4月16日:2年2ヶ月 享年:75歳
- 徳川秀忠(ひでただ):慶長10年 (1605年) 4月16日-元和9年 (1623年) 7月27日:18年3ヶ月 享年:54歳
- 徳川家光(いえみつ):元和9年 (1623年) 7月27日-慶安4年 (1651年) 4月20日:27年9ヶ月 享年:48歳
- 徳川家綱(いえつな):慶安4年 (1651年) 8月18日-延宝8年 (1680年) 5月8日:28年9ヶ月 享年:40歳
- 徳川綱吉(つなよし):延宝8年 (1680年) 8月23日-宝永6年 (1709年) 1月10日:28年5ヶ月 享年:64歳
- 徳川家宣(いえのぶ)(初め綱豊):宝永6年 (1709年) 5月1日-正徳2年 (1712年) 10月14日:3年5ヶ月 享年51歳
- 徳川家継(いえつぐ):正徳3年 (1713年) 4月2日-享保元年 (1716年) 4月30日:3年1ヶ月 享年8歳
- 徳川吉宗(よしむね)(初め頼方):享保元年 (1716年) 8月13日-延享2年 (1745年) 9月25日:29年1ヶ月 享年68歳
- 徳川家重(いえしげ):延享2年 (1745年) 11月2日-宝暦10年 (1760年) 5月13日:14年6ヶ月 享年51歳
- 徳川家治(いえはる):宝暦10年 (1760年) 5月13日-天明6年 (1786年) 9月8日:26年4ヶ月 享年50歳
- 徳川家斉(いえなり):天明7年 (1787年) 4月15日-天保8年 (1837年) 4月2日:50年 享年69歳
- 徳川家慶(いえよし):天保8年 (1837年) 4月2日-嘉永6年 (1853年) 6月22日:16年2ヶ月 享年61歳
- 徳川家定(いえさだ)(初め家祥):嘉永6年 (1853年) 11月23日-安政5年 (1858年) 7月6日:4年8ヶ月 享年35歳
- 徳川家茂(いえもち)(初め慶福):安政5年 (1858年) 10月25日-慶応2年 (1866年) 7月20日:7年9ヶ月 享年21歳
- 徳川慶喜(よしのぶ)(初め昭致):慶応2年(1866年)12月5日(1867年1月10日)-慶応3年(1867年)12月9日:1年 享年:77歳
徳川慶喜は大奥に入ったのか?
慶喜は大奥にも江戸城にも入っていない唯一の将軍です。
慶喜は京で将軍に就任し、在任中一度も江戸に戻りませんでした。そのため、歴代将軍で唯一、在任中に江戸城に入っていません。
ですので大奥に足を踏み入れる事もなっかたのです。
正室・美賀君とは早世した女児のほか子はありませんでした。ですが、2人の側室(側女中)と多くの愛妾との間に。21人の子がいたとのことです。
男子10人、女子11人で子の数としては、11代の家斉の53人、12代・家慶の27人に続いて3番目に多いと言われていますが諸説ありますね。
徳川慶喜のあだなは?
さまざまな「あだな」がつけられたようです。代表的なのは「二心どの(にしん)」ですが、ふたごころの意味ですね。
慶喜は水戸徳川家の出身ながら、朝廷と太いパイプを持ち、いずれ徳川家を“売る”のではないかという猜疑心から旗本の面々から呼ばれました。
その他に「豚一様」。当時高価で珍しい豚肉を好んで食べていたからだそうです。
「強情公」。頑固でかたくなな性格からですね。
最後に「けいき(慶喜)様」。静岡では地元の人々から訓読みで親しみを込めて呼ばれていました。
草薙剛(キャスト)が「青天を衝け」で演じた徳川慶喜の維新後。
徳川慶喜は多趣味であった。
慶喜は明治維新後、水戸での謹慎を経て、静岡に居を移して以降、政治とのつながりを断たれました。
変わりに趣味人として生きることになり、カメラ、絵画、狩り、囲碁、刺繍、作陶、サイクリングなど多岐にわたっています。
趣味に日々の安らぎを求め、それを通じて人的なネットワークを広げていったとのことです。
特にカメラはもっとも熱心に続けました。華族の写真愛好家が発行していた写真投稿詩「華影」にもよく投稿し、画家・黒田精輝ら評者の批評を受けていました。
徳川慶喜2度目の国政・貴族院議員に就任。
明治30(1897)年、60歳の慶喜は、静岡から東京に居を移します。翌年、明治天皇に拝謁がかない、4年後には皇族や渋沢栄一の働きかけもあり、公爵の爵位が授けられます。
これにより、帝国議会の貴族院議員となり、再び国政の舞台に帰ってくることになります。
ただ、慶喜はほとんど発言をせず、目立たない議員生活を送ります。
明治43年、七男・慶久に家督と爵位を譲り慶喜は隠居いたします。
青天を衝けでは維新後の慶喜をどこまで描かくかは解りませんが、願わくはせめて隠居までドラマ化して欲しいですね。
まとめ。
徳川幕府最後の将軍として、賛否両論ながらもやるべきことはやった慶喜を、「いいひと」のイメージが強い草彅剛さんが演じました。
大河ドラマの草なぎ剛さんは「新選組!」で榎本武揚役としてちょい出演する程度でした。
時代劇の経験はあまりないのですが、清濁両面ある徳川慶喜をどのように演じるのか、非常に楽しみでした。
2021年大河ドラマ「青天を衝け」の徳川慶喜を草なぎ剛さんを通じてどのような将軍であったのか?を再度勉強したいと思っています。
大河ドラマ俱楽部の管理人です。
NHK大河ドラマをこよなく愛し毎週楽しみに視聴しています。
ただ視聴するだけでなく「あらすじと感想」を紹介しています。
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