安田顕(キャスト)が大河ドラマ2025年「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で演じる「平賀源内」を紹介します。
「べらぼう」は大河ドラマでは珍しい江戸時代中期の物語です。平和な江戸時代中期に時代の先駆者として誕生した「平賀源内」。
コピーライトやデザインを勉強している方はいわずもがなですね。源内を演じる安田顕は大河ドラマは2回目ですね。
前作の出演は2006年放送の「功名が辻」で豊臣政権で五大老の一人である「宇喜多秀家」を演じていました。
さて、蔦重は吉原の繁栄と女郎たちの幸せを真に願い熱い情熱で突き進みます。
相棒は「花の井改め瀬川」。二人の愛情はソウルメイトでしたが時間と共に微妙な男女間の愛に育っていきます。
でも、吉原での恋愛は御法度。この吉原事情は9話と10話で描かれました。小芝風花の好演を「NHKオンデマンド」で先ずは無料で再視聴しましょう。
安田顕が大河ドラマ「べらぼう 」で演じる平賀源内とは。
元は讃岐・高松藩の足軽の子です。長崎への遊学などを通じて本草学(薬学)、蘭学、鉱山開発などの多彩な知識を得ます。
幕府老中・田沼意次もほれ込む異才の人です。蔦重の依頼で吉原への誘客に一役買います。
平賀源内が活躍する「べらぼう」のあらすじ(ネタバレ)と感想の一覧はこちら。
大河ドラマ2025年「べらぼう」前編のガイドブックはこちら。⇒大河ドラマ2025年「べらぼう」
平賀源内とは。
平賀源内は江戸中期に讃岐高松藩の足軽蔵番の息子として誕生し、藩主の影響もあり本草学者として活躍します。
讃岐高松藩主の「松平頼恭(よりたか)」は博物学に興味があり博物大名として有名です。その藩主に見いだされ、1年間長崎に遊学します。
その後、藩を飛び出し、江戸で田村藍水(らんすい)に本草学を学びます。
平賀源内の物産会。
宝暦7年(1757年)から藍水とともに物産会を5回にわたり開催しました。その後、宝暦13年に「物類品隲(ひんしつ)」を出版します。
この時に、杉田玄白と親友になります。やがて田沼意次に気に入られ2度目の長崎遊学をしています。
2025年2月NHKBS放送「英雄たちの選択」で平賀源内を取り上げています。
平賀源内はアイデアマン。
平賀源内は、様々な職業を持つアイデアマンです。
江戸時代の本草学者だけでなく、戯作者、鉱山開発者、発明家とさまざまな顔を持ちながら、成功と失敗を繰り返してきた男です。
特に彼が草案したコピー(宣伝文)は主人公である蔦重の人生を変えたほどの影響力を持つのです。
源内の発想に時の権力者である田沼意次もほれ込み、特命を託すほど目にかけていました。
平賀源内の役割と活動。
平賀源内は江戸城にも出入りできる立場でした。ですので蔦重(吉原)と田沼意次(江戸城)を橋渡しの役割をしていたと思います。
平賀源内のエピソード。
蔦重が出版した吉原の錦絵を、意次を通して上様(徳川家治)に献上したことです。現代風に言えば、時の権力者(総理)にいかがわしい本(流行りの漫画本)を読んでもらうことです。
この突拍子もない行動が、江戸文化が花開く一助になるのです。
平賀源内は「江戸戯作の阻」
いくつもの顔をもち、西洋風の油絵も描く源内です。
- 戯作者としては、風来山人(ふうらいさんじん)
- 戯作者としては、天竺浪人(てんじくろうにん)
- 浄瑠璃作者としては、福内鬼外(ふくちきがい)
- 油絵や物産学においては、鳩溪(きゅうけい)
と号するなど、名や号を使い分けていました。
蔦重と最初に遭った時には、貧家銭内(ひんかぜにない)と、戯(たわむ)れに名乗っていましたね。
源内の戯作。
源内は安永3年から7年にかけて戯作者や狂言師たちと交遊を重ねつつ「※小型本」の戯作(げさく)を続けざまに執筆します。
(※小型本=届け出が不要な小型簡易本)
(※戯作(げさく)=江戸時代に発達した通俗文学で、黄表紙、滑稽本、人情本などの小説の総称)。
吉原細見への序文執筆再開が、明和6年以来しばらく戯作から遠ざかっていた源内を、その世界に連れもどしました。
平賀源内が浮世絵に与えた影響。
北尾政美(鍬形恵斎)は中良にもっとも近い絵師で、津山藩への仕官は中良の兄・桂川甫周の推挙があったと伝わっています。
北尾重政門で相弟子の北尾政演(山東京伝)も中良と親しかったが、のちに仲違いをしたと馬琴は記しています。
寛政3年(1791年)京伝の洒落本出版の廉で蔦重が身代半減の処罰を受けた際、京伝が手鎖50日の刑を受けたことは井上ひさしの「手鎖心中」で描いています。
安田顕が大河ドラマ「べらぼう 」で演じる平賀源内と蔦重の関係。
平賀源内と蔦重の接点は。
平賀源内と蔦屋重三郎(蔦重)の接点は「吉原細見」です。「吉原細見」の詳細は「蔦屋重三郎」の紹介記事に掲載しています。
ドラマでは、第1話で源内と蔦重の接点が描かれました。この時、蔦重は25歳、源内は47歳になっていました。
平賀源内と吉原の結びつき。
蔦重は吉原遊郭(パンフレットでガイドブック)の案内本である「吉見細見」の序者に源内を起用します。
というのも、吉原細見(吉原案内本)の巻頭に江戸の文芸家が序文を寄せるという慣例が明和期(1764年~71年)から始まりました。
源内が最初に寄稿したのは明和7年(1770年)刊の「天の浮橋」でした。その時の版元は小泉忠五郎で、その後は蔦屋重三郎が源内に序文執筆を依頼するのです。
源内が序者を務めてから、江戸戯作・狂歌を代表する作者が「吉原細見」の序者を務める慣例が始まりました。
安永3年(1774年)春の吉見細見「嗚呼御江戸」がその※嚆矢(こうし)ですので、執筆依頼は前年です。
蔦重は数えで23歳の若者で、源内は蔦重より22歳年上の45歳です。
※嚆矢(こうし)⇒物事のはじめ
平賀源内の吉原細見「序」の完成。
第2話「吉原細見(嗚呼御江戸)」のエンディング近くで安田顕が演じる平賀源内が吉原の女性たちを観察しながら(嗚呼御江戸)を読み上げています。
このシーンは第2話のクライマックスですので、ぜひご覧ください。
蔦屋の浮世絵と繋がる。
蔦屋の狂歌本出版を支えた「宿屋飯盛」は四方側の「鹿都部真顔」とライバル関係にありました。
真顔たち源内に近い狂歌連は蔦屋の好敵手であった「鶴屋喜右衛門=鶴喜」と手を組むことが多かったのです。
彩色摺りの狂歌本は鶴喜と蔦重の競合によって進化を遂げ、蔦屋の屋号骨を支える喜多川歌麿、葛飾北斎そして東洲斎写楽の浮世絵へと繋がっていきます。
赤・黄・緑の三色摺がせいぜいのところであった浮世絵を「見当」という技術や顔料の開発で東錦絵と呼ばれる多色刷りの鮮やかな版画へと発展させたのは源内だと言われています。
その先に、いまや世界的名画として名高い北斎画「神奈川沖浪裏」を頂点とする浮世絵の百花繚乱があったのです。
源内とエレキテル。
安永5年(1776年)11月、源内はエレキテル(摩擦起電機)の修理に取り組み、日本ではじめて復元に成功します。
エレキテル(摩擦起電機)の入手は二度目の長崎遊学の際に、入手したと考えられています。
復元したエレキテルを見世物にすると、大人気となり、源内の名も一躍、全国に轟いたが、やがてエレキテルは飽きられてしまいます。
そして、3年後、衝撃的な事件が勃発するのです。
安田顕が大河ドラマで演じる平賀源内は日本で最初のコピーライター。
平賀源内の「本日、土用の丑うしの日」
平賀源内は「本日、土用の丑の日」のコピーを考えた人物です。十二支で数えたときに丑にあたる日、12日周期で訪れます。
現在の日本では、夏の暑さに対する滋養強壮としてウナギを食べる習慣がありますが、江戸時代はうなぎの旬は冬でしたので売れませんでした。
それをこのコピーを打ち出したことで夏のウナギが大ヒットしたのです。
平賀源内のコピーライト紹介は第2話。
江戸時代を代表するスター平賀源内。学者であり、医者、作家で発明家で、日本におけるコピーライターのはしりとも言われているのが平賀源内です。
第2話「吉原細見(嗚呼御江戸)」で、平賀源内の歯磨き粉「嗽石香(そうせきこう)」の広告を紹介しています。
明和6年(1769年)で、この広告が蔦重を動かしたのです。源内はコピーライターとしての才にも、恵まれていたのでしょう。
平賀源内がコピーを生み出した背景。
脱藩依頼どこの藩にも抱えてもらえず、由緒正しき武家の世界からはみ出した平賀源内。
自由というわがままを通しているのだから多少きつくても仕方がないと笑い飛ばしながら生きていました。
その明るさが魅力ですね。
第5話で見事に表現していましたね。
心に残る台詞をいただきました。
我が心より、感謝申し上げます。#大河べらぼう #平賀源内 #自由 https://t.co/7LXelXC9vC— 安田顕 (@yasu_da_ken) February 2, 2025
源内、蔦重、そして意次。
吉原と江戸城をつなぐ橋渡し役の源内。吉原の出版業者である蔦屋重三郎、そして幕府老中の田沼意次と協力しながら、源内は文化の発展に寄与します。
源内は獄中で亡くなったとされていますが、密かに老中・田沼意次に助けられ、遠州相良(さがら)でかくまわれているという噂が当時広まっていたそうです。
この伝説めいた逸話は、源内がいかに多面的で、人々の関心を引いたかを示しています。
「べらぼう」で演じるキャストの一覧はこちら。
安田顕が大河ドラマで演じる平賀源内の誕生から最期。
平賀源内の誕生。
平賀源内が生まれたのは、八代将軍・徳川吉宗の治世だった享保13年(1728年)とされています。蔦屋重三郎は寛延3年(1750年)の生まれですから22歳年上です。
生地は、讃岐国寒川郡志度浦(香川県さぬき市志度)で、父は高松藩の米蔵番を務める白石茂左衛門(良房)、母は山下氏の娘です。
父は、「一人扶持切米三石」という下級武士でしたが、農業を本業としていたと考えられており、比較的裕福だったようでした。
源内は「天狗小僧」
源内は幼い頃から発想力が豊かで、才気活発だったようです。父の白石茂左衛門は教育熱心で、源内は13歳の時から、儒学や本草学を学びます。
12歳の時に、天神が描かれた掛け軸に御神酒を供えると、天神の顔が赤く変わる「からくり」を作ったと伝えられており「天狗小僧」と異名されたといいます。
さらに、源内は本草学に傾倒していきます。
各方面で才能を発揮し、名を上げるようになっても、本草学者だという自負を強く抱いていたようです。
父の死後の源内は…。
寛延2年(1749年)父・白石茂左衛門が亡くなり、源内が22歳で家督を相続し、敬愛する遠祖の「平賀」姓を名乗ります。
宝暦2年(1752年)、藩の許可を得て、長崎に遊学し、その見聞に刺激を受け、江戸行きを望みます。
宝暦4年(1754年)、藩を退役し、妹・里与に婿養子を取らせて家督を譲り、2年後の29歳の時、故郷をあとにします。
この間に、オランダ製の器械を模写して、磁針器(方位磁石)、量程器(万歩計)を制作したといわれています。
その後、大坂にて名高い医師で本草学者の戸田旭山(とだ きょくざん)に師事し、江戸に出て、同年に本草学の大家である田村藍水(たむら らんすい)に入門します。
源内は杉田玄白と知り合う。
江戸での源内の活動は、薬品会(やくひんえ)現代の物産会の発案です。
宝暦7年(1751年)7月、江戸湯島にて、第1回「東都薬品会」が開催され、薬種や物産の有益な情報交換の場となりました。
そこで、解体新書を和訳した杉田玄白と知り合い、生涯の盟友となります。
源内は二代目瀬川菊之丞の愛人?
薬品会はその後も何度も開かれ、盛況でした。
第1話「ありがた山の寒がらす」において、蔦屋重三郎が、二文字屋の女郎「朝顔」に読み聞かせていたのは、根南志具佐です。
二代目瀬川菊之丞が登場し、当時、大人気の若女形でした。
源内は生涯独身で、女嫌いを公言していたこともあり、瀬川菊之丞の愛人と噂されていました。
平賀源内の最期。
安永8年(1779年)11月21日、源内は神田橋本町の居宅において、殺傷事件を起こします。小伝馬町の牢に入った源内は、同年12月18日、破傷風のため、52歳で獄中死しました。
事件についての真相はわかっていません。葬儀は友人や門人によって、行なわれました。
盟友の杉田玄白は、私財を以て平賀源内の生涯の業績を称え墓碑を建てました。「処士鳩渓墓碑銘」
平賀源内の墓碑に刻まれた碑文の結びの句は「嗟(ああ)非常ノ人、非常ノ事ヲ好ミ、行ヒ是レ非常、何ゾ非常ニ死スルヤ」
杉田玄白の友への深い哀悼の意と、「非常の人」であった平賀源内の悲哀を感じさせます。「べらぼう」では平賀源内の最期をどのように描くのでしょうか?
まとめ。
まだまだ始まったばかりですが、源内の存在感は十分伝わっています。まだまだ続きますのでこれからも追記していきます。
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