横浜流星(キャスト)が大河ドラマ2025年「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で演じる「蔦屋重三郎」を紹介します。
大河ドラマでは珍しい江戸時代中期の時代背景です。この時代の大河ドラマは1995年の西田敏行が主役を演じた「吉宗」以来です。
また主人公は「蔦屋重三郎」という大河で取り上げないと一般人としては聞くことがなかった人物です。
しかしながら「蔦屋重三郎」は誰もが知っている「歌麿や写楽そして北斎」を世に出した出版・浮世絵ビジネスを手掛けたプロデューサーなのです。
それでは彼はいったいどんな生涯を送ったのでしょう。
さて、大河ドラマ2025年は昨年(光る君へ)の雅な平安貴族ではなく、信長、秀吉、家康らが甲冑をつけて戦う戦国時代でもありません。
江戸の下町吉原から発する町人文化の物語で、商いの戦が繰り広げられます。蔦重こと「蔦屋重三郎」が吉原の一庶民からメディア王に駆け抜けた「日本出版文化史」です。
大河ドラマ史上珍しくも町民文化のビジネス・ストリーが描かれます。現代の出版業やコンテンツビジネスに携わる若い世代にも届く作品です。
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- 横浜流星(キャスト)が大河ドラマ「べらぼう」で演じる「蔦屋重三郎」とは。
- 横浜流星(キャスト)が演じる「べらぼう」「蔦屋重三郎」の誕生。
- 横浜流星(キャスト)が演じる「べらぼう」「蔦屋重三郎」の創業・独立。
- 横浜流星(キャスト)が演じる「べらぼう」「蔦屋重三郎」が版元に。
- 横浜流星(キャスト)が演じる「べらぼう」「蔦屋重三郎」の収益。
- 横浜流星(キャスト)が演じる「べらぼう」「蔦屋重三郎」のプロデュース。
- 蔦屋重三郎(蔦重)の商才。
- 横浜流星(キャスト)が演じる「べらぼう」「蔦屋重三郎」の試練。
- 横浜流星(キャスト)が演じる「べらぼう」「蔦屋重三郎」の復活。
- 横浜流星(キャスト)が演じる「べらぼう」「蔦屋重三郎」の出版界。
- まとめ。
横浜流星(キャスト)が大河ドラマ「べらぼう」で演じる「蔦屋重三郎」とは。
死没:寛政9年(1797年5月6日)(47歳没)
蔦屋重三郎は寛延3年(1750年)江戸の吉原で生を受けます。本名は、丸山柯理(からまる)で父は尾張出身の丸山重助、母は江戸出身の広瀬津予です。
幼少期、「蔦屋」の屋号で商家を営んでいた喜多川氏の養子に入り通称を重三郎と名乗ります。
寛政9年(1797年)までの47年の生涯です。
江戸幕府8代将軍徳川吉宗の時代に生を受け、9代将軍徳川家重、10代将軍徳川家治の時代から11代将軍徳川家斉の時代で没しています。
「べらぼう」では10代将軍徳川家治の時代が描かれると思います。
蔦屋と「TUTAYA」の関係は。
蔦屋(つたや)と聞くとCD&DVDのレンタル会社「TUTAYA」と関係があるのかと思う大河ファンも多いと思います。
結論は血縁関係はありません。詳しくはこちらで紹介していますのでお読みください。
大河ドラマ2025年「べらぼう」のガイドブックはこちら。
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蔦屋重三郎が生まれ住んだ吉原とは。
放送前の予告編では、明和9年(1772年)の「明和の大火」から始まります。この場所の吉原を新吉原と呼んでいます。
というのも元々吉原は、日本橋葺屋町(ふきや)現在の東京都中央区日本橋人形町2丁目付近にありました。
しかし、明暦3年(1657年)の明暦の大火で全焼したのと、幕府公認の遊郭が江戸の中心にあるのはよろしくないとのことで移転してきたのです。
新吉原は明和5年(1768年)にも全焼しています。しかし、吉原の守護神、「九郎助稲荷」だけが2度の大火でも焼けずに残りました。
「べらぼう」では綾瀬はるかさんが「九郎助稲荷」として語りを務め、重三郎の活躍を見守っていきます。
「べらぼう」で「蔦屋重三郎(蔦重)」が描かれることは、当時の多くのクリエイターの作品が紹介されると言うことです。
なぜなら蔦重は江戸時代中期に本が大衆化し出版業界が変革を遂げた時期に活躍した出版業者(プロデューサー)だからです。
喜多川歌麿や葛飾北斎をはじめ、東洲斎写楽を世に送り出し、その他にも数多くの浮世絵師や作家の才能をプロデュースしています。
蔦重の本名は「喜多川珂理」です。
「重三郎」は通称であり、その他に狂歌名を「蔦唐丸」で、屋号は「蔦屋」、または「耕書堂」と言います。
令和の時代でもビジネスモデル。
令和の社会でも存在する「本屋や出版、版元」。
出版業界で働く方々やコンテンツを扱うエンターテイメントで生きる業界の方々はとても参考になる題材です。
貸本屋からビジネスを大きくしてきた蔦重は「プロモーター」の顔としてもその存在は偉大です。経営手腕を知りたい方には必見の大河ドラマです。
令和の時代はネット社会でAIが予測不能な勢いで進化しています。デジタルコンテンツもAIが主流となるでしょう。
ただ、歌麿や写楽などのクリエイターたちのアナログ技術の原点を知ることもとても有意義だと思います。
蔦屋重三郎の生涯。
- 誕生:1750年(寛延3年)、吉原遊郭の勤め人「丸山重助」の子として吉原で生まれます。しかし幼くして両親と生き別れ、引手茶屋・喜多川氏の養子になりました。
- 書店開業:1773年(安永2年)、吉原大門前に書店「耕書堂」を開きます。(貸本が主業務)
- 出版物発行:1774年(安永3年)には最初の出版物となる遊女評判記「一目千本」を刊行。
- 事業拡大:1780年(安永9年)には本格的に出版業を開始。
- 日本橋に店を構える:1783年(天明3年)には日本橋の通油町に店を構え、黄表紙をはじめ、洒落本や狂歌本、絵本、錦絵などを出版し、次々とヒット作を生み出す。
- 表紙が摘発:老中「松平定信の「寛政の改革」が始まり、1791年(寛政3年)には山東京伝の洒落本や黄表紙が摘発されます。
- 弾圧:蔦屋重三郎は過料、山東京伝は手鎖50日という処罰を受けます。
- 東洲斎写楽の役者絵を出版:弾圧のなか、1794年(寛政6年)に東洲斎写楽の役者絵を出版。
- 死亡:1797年(寛政9年)、脚気により、48歳という若さで没す。
蔦重は江戸時代(安永・天明・寛政期)の出版界を代表するヒットメーカーでありカリスマ経営者でした。
小さな貸本屋から始まり、一代で江戸きっての有名版元(出版社発行人)に成り上がった人生を「べらぼう」で楽しみましょう。
「べらぼう」のあらすじ(ネタバレ)感想一覧はこちら。
「べらぼう」で演じるキャストの一覧はこちら。
横浜流星(キャスト)が演じる「べらぼう」「蔦屋重三郎」の誕生。
蔦屋重三郎(蔦重)の誕生。
蔦重は寛延3年(1750年)1月7日に江戸の遊廓・吉原で生まれました。7歳の時に両親が離婚し、吉原で引手茶屋「蔦屋」を経営する喜多川氏の養子になります。
引手茶屋とは、酒や食べ物を提供しつつ客の希望などを聞き、それに合わせた妓楼と遊女を手配してくれる吉原の案内所のような場所です。
現代でいう「マッチングアプリ」などの場を提供する場所ですね。
- 本名:丸山柯理(からまる)
- 父:丸山重助(尾張出身)
- 母:広瀬津予
蔦重の親戚縁者の多くは「廓者」として廓内で働いていました。
蔦重が生まれ育った吉原とは。
蔦屋重三郎は生まれも育ちも江戸の吉原です。その吉原とはどんな場所だったのでしょう。
幕府公認の遊郭・吉原は、江戸の二大悪所といわれる一方、文化人が集うサロン的な役割を果たす場となっていました。
そのような特殊な環境で生まれ育った蔦重は以後、自らの出目を最大限に活かし、江戸の出版界をのし上がっていくのです。
幕府公認の遊郭・吉原とは。
横浜流星(キャスト)が演じる「べらぼう」「蔦屋重三郎」の創業・独立。
蔦屋重三郎(蔦重)の書店開業。
23歳になった蔦重は、吉原大門前「五十間道」にあった義兄・蔦屋次郎兵衛が営む「引手茶屋」の軒先を借りて、貸本屋兼書店の「耕書堂」を開業しました。
当時、書籍の値段は庶民には高価で、手軽な料金で本をレンタルできる「貸本屋」が繁盛していたのです。
(貸本屋は戦後の昭和でも商店街には必ずありましたよね。高価な漫画本は貸本屋でした)
しかし蔦重は、ただの貸本屋で終わるつもりはありませんでした。
いずれは「版元になりたいと野望を抱き」貸本屋として、妓楼や茶屋などの店に出入りすることで、吉原きっての「事情通」となっていきます。
その業界のリサーチのプロになっていったのですね。「べらぼう」の物語はこの時代から始まるような気がします。
蔦屋重三郎(蔦重)成功の原点(吉原ガイドブックを企画)。
蔦重の成功は「吉原細見」という遊廓のガイドブックが原点であり出発点です。明治本はこんな感じです。
明治の⇒吉原細見
吉見細見とは。
吉見細見とは、吉原内の略地図をはじめ、妓楼の場所や遊女の名前などが記載されていました。通常、春と秋の年2回発行されていました。
実用的なガイドブックとしてだけでなく、江戸みやげとしての需要もあり、隠れたベストセラーだったといいます。
「吉原細見」は鱗形屋が独占販売。
ただ、当時「吉原細見」は、江戸の大手版元である鱗形屋の孫兵衛が独占販売をしていました。
(孫兵衛を演じるのは片岡愛之助)
しかし遊女の出入りが激しいにもかかわらず、あまり改訂されずに情報が古いことも多く情報誌としての信用が落ちていました。
このままでは売り上げに響きます。そこで情報をアップデートするために「細見改め」に抜擢されたのが蔦重だったのです。
蔦屋重三郎(蔦重)は「吉原細見」の企画編集を下請け。
「細見改め」とは今でいうリサーチャー兼編集者で、遊女の最新情報などを集めて新しい「吉原細見」を企画編集する仕事でした。
吉原で生まれ育ち、人脈がある蔦重にはぴったりの役割といえます。
蔦重は、鱗形屋の下請け(編集プロダクション)として、「吉原細見」の企画編集に携わるようになります。
横浜流星(キャスト)が演じる「べらぼう」「蔦屋重三郎」が版元に。
蔦屋重三郎が「版元」としてスタート。
それまで、本のレンタル(貸本屋)と販売だけを商売にしてきた蔦重ですが、ここから版元として本の制作分野に進出していきます。
蔦重が初めて版元として出版した吉原細見は「籬の花」です。
ここが出発点で8年後の天明3年(1783年)正月からは蔦重による吉原細見の独占的な出版が始まります。
蔦屋重三郎のチャンスは鱗形屋孫兵衛の重版事件。
蔦重の快進撃はこの事件から始まりました。「鱗形屋孫兵衛の重版事件」です。それは…
鱗形屋の※手代の徳兵衛が大阪の版元の出版物を無断で改題して売り出したのです。同じ内容のものを無許可で出版する「重版」は重罪です。
「著作権の侵害」ですね。
※手代=商店で、番頭と小僧との中間の使用人または、頭(かしら)に立つ人の代理人。
徳兵衛は家財没収のうえ江戸十里四方追放で、店の責任者である孫兵衛も罰金刑を科せられました。
江戸時代でもこの制度があったことに驚きです。そんなわけで鱗形屋は「吉原細見」を出版できない事態に陥ります。
蔦重はそのチャンスを活かしたのです。
自らが版元となり「吉原細見」を出版します。蔦重は吉原のことを知り尽くしていました。蔦重版「吉原細見」はたちまち大人気になりました。
その後、鱗形屋版「吉原細見」の刊行も再開されましたが、蔦重版には勝てず、7年後には蔦重版が独占状態になりました。
やがて大手版元だった鱗形屋は衰退し江戸の出版業界から姿を消すことになります。栄枯盛衰とはこのことですかね。
蔦屋重三郎の快進撃が始まる。
鱗形屋は吉見細見を独占出版していましたが、「鱗形屋孫兵衛の重版事件」で秋の細見の出版がされませんでした。
蔦重はこの商機を見逃しません。蔦重は細見「籬(まがき)の花」を大胆かつ的確な経営判断で出版するのです。
こうして蔦重は吉原の関係者から大きく注目されました。そして窮地にたっていた吉原のために力を注ぐのです。
蔦屋重三郎の一目千本。
吉原の慢性的な苦境を救ったのはプロジェクト「一目千本 華すまひ」です。
実用性よりも妓楼や遊女から上客への贈呈用に買い取られたとされています。
蔦屋重三郎の「吉原細見(一目千本)」が大ヒット。
一目千本は、遊女を生け花に見立てた絵本仕立ての遊女評判記です。ポイントは、その全体から漂う優美で瀟洒(しょうしゃ)な趣です。
吉原の高雅な印象と重なりますね。
ここで花に見立てられた遊女は、蔦重の出版物を通じて洗練されたイメージが付与され、まさに吉原の江戸文化の華と演出されたのです。
一目千本は吉原の妓楼がスポンサーとなって制作した得意客用の配布冊子で、この冊子を持つことで通人の証になったのでしょう。
雛形若菜の初模様。
蔦重の出版物でもう一点、注目したいものがあります。それは安永4年から刊行された「約140図」の錦絵シリーズ「雛形若菜の初模様」です。
遊女とお付きの新造、禿が名前入りで描かれた本連作は、遊女や妓楼、ひいては吉原そのものを廓外に向けて大々的に宣伝する目的で作られているようです。
版元として、蔦重の他に、江戸の新興・西村屋与八も参加しているからです。これは市中への賄賂を確保する意識が現れています。
いずれにしてもその長期的・網羅的な企画内容から、刊行にあたってはむしろ吉原側から積極的な働きかけがあった可能性が高いと思います。
吉原側の事情や意向をくみ取り、廓外の版元との調整・企画をなし得るのは、これまでの仕事で信頼と実績を積み重ねてきていた蔦重を置いて他にいなかったでしょう。
蔦屋重三郎の「吉原細見」ヒット要因その1。アップデート。
蔦重の「吉原細見」の大ヒットの要因の一つに「最新の情報にアップデート」をあげることができます。
それまでの「吉原細見」は、情報が古かったり間違っていたりすることが多く、信頼性に欠けていました。
そこで、蔦重は店を回って最新の情報に書き換えました。
店や遊女の格付けや詳細な料金などの情報も充実させたのです。吉原の事情通である蔦重にはうってつけでした。
蔦屋重三郎の「吉原細見」ヒット要因その2。ブランド力。
蔦重が細見改めとして最初に関わった「吉原細見」のタイトルは細見嗚呼御江戸。その序文を人形浄瑠璃の人気作家・福内鬼外に依頼しました。
福内鬼外と聞いてもピンとこない大河ファンも多いと思いますがコピーライターの「平賀源内」のペンネームです。
べらぼうでは、安田顕さんが演じますので期待大です。平賀源内は、エレキテルの発明や土用のウナギなどで有名なマルチクリエイターです。
平賀源内の序文は大きな話題を呼びました。
その後も、序文には朋誠堂喜三二や尾美としのり、跋文などを起用し、あとがきは、四方赤良、大田南畝、
祝言狂歌を朱楽菅江という有名作家を起用しました。
いわば、有名人やベストセラー作家の序文で箔をつけ、「吉原細見」のブランドを高めることに成功したのです。
蔦屋重三郎の「吉原細見」ヒット要因その3。ユーザーファースト。
蔦重が版元となって最初に刊行された細見『籬(まがき)の花』は、今までの鱗形屋版細見から見た目が大きく変わりました。
「横長」から「縦長」になり、大きさも約2倍に判型を変更しました。これは現在の単行本の判型四六判とほぼ同じになります。
通りを真ん中に配置し、その両側に店を書き込む等、遊廓の位置関係をよりわかりやすくしました。
判型とレイアウトの変更で、ページ数を減らしたことにより、大幅なコスト削減に成功します。その分、安価で販売することができました。
「薄い、安い、見やすい」とユーザーファーストとして喜ばれたのです。
横浜流星(キャスト)が演じる「べらぼう」「蔦屋重三郎」の収益。
蔦屋重三郎の「吉原細見」以外の出版物。
蔦重は「吉原細見」以外に吉原からのオーダーでの贈答本やイベントのガイドブックも作りました。
制作費は発注元が出してくれるのでリスクはなく、定期的に発行されるので確実に利益があがりました。
他にも寺子屋の教科書なども手がけました。(現在の教科書出版社)薄利ながら長期にわたって同じものを刷れば一定の売り上げと利益が見込める商品です。
蔦屋重三郎の「吉原細見」収益は広告収入も。
このように、かゆいところに手が届く蔦重版の「吉原細見」は大ヒットしました。
春秋と2度の改訂版が出て、そのたびに一定の売り上げが見込めます。また吉原の各店からの広告収入もあります。
「吉原細見」の出版物で、蔦重は安定した収入を得ることができました。現在でも大手出版社はストックしているコンテンツが沢山あります。
重版になれば社も作家も潤います。
蔦重は耕書堂という小さな貸本屋から始め、その後のアイデアと実行力で安定した経営基盤を築き上げていくのです。
横浜流星(キャスト)が演じる「べらぼう」「蔦屋重三郎」のプロデュース。
蔦屋重三郎(蔦重)はプロモーター。
蔦重は時代の流れを読み取る嗅覚に優れていました。数々の流行作家とタッグを組み、話題作を続々と世に出しました。
それでいて、いわゆるクリエイターであったわけではなく、経営者としても堅実な一面を持っていました。
現代でいうとベストセラーを連発する編集者兼出版社社長といったところでしょうか。
蔦屋重三郎(蔦重)がプロデュースしたクリエイター。
- 喜多川歌麿(染谷将太):無名だった絵師を江戸きっての人気絵師に。
- 東洲斎写楽:謎の天才絵師。
- 葛飾北斎:蔦重の死後に大ブレイクする。
- 曲亭馬琴:無名時代から活動をサポート。
- 十返舎一九:無名時代から活動をサポート。
蔦屋重三郎(蔦重)の商才。
34歳の時、日本橋通油町(現在の中央区日本橋大伝馬町)に進出します。本店を構えるのです。
「黄表紙」「酒落本」「狂歌絵本」「錦絵」などのヒット作を次々とプロデュースして、時代の寵児となりブランドを確立しました。
当時の日本橋界隈。
江戸の商業・文化の中枢である日本橋界隈は、出版業においても、歴代の書物問屋や地本問屋が軒(のき)を連ねてきた一等地でした。
そこへの進出は、蔦重が名実ともに一流の版元として認められたことを示しています。
蔦重と狂歌。
天明期の蔦重の仕事して重要なのが、当時江戸で爆発的な流行を見せた「狂歌」に関する出版でした。
狂歌とは、和歌のパロディーのことで、伝統的な「五七五七七」の形式を用いつつ、世俗的な洒落や皮肉を歌に盛り込んで詠(えい)じる遊びです。
狂歌は原則、記録をとらずにその場で詠み捨てられていたものです。
狂歌集が刊行。
横浜流星(キャスト)が演じる「べらぼう」「蔦屋重三郎」の試練。
蔦屋重三郎(蔦重)と寛政の改革。
天明7年(1787年)から寛政5年(1793年)にかけて行われた幕政改革は「寛政の改革」と呼ばれ、前年(天明6年)に失脚した田沼意次に代わった老中松平定信が中心となって断行されました。
「寛政の改革」が始まると、風紀取り締まりが厳しくなり、順風満帆だった蔦重の出版業も陰りが見え始めます。
蔦重の出版を支えていた武士作家たちが狂歌や戯作界から次々と去っていったのです。
次々と去っていく武士作家。
太田南畝(なんぽ)
太田南畝(なんぽ)はわずか一年間の滞在で長崎弁を使いこなし、万人の笑みを誘う長崎情緒を歌い上げた江戸の狂歌師で別名は「蜀山人」
意次の腹心の土山宗次郎と懇意にしていたとのことが自らに不利に働くと懸念して活動を自粛しました。
朋誠堂 喜三二と恋川春町
黄表紙作家の朋誠堂 喜三二(ほうせいどう きさんじ)と恋川春町は、手がけた作品が政治を風刺する内容だったとして、両者とも断筆に追い込められました。
朋誠堂 喜三二の本名は平沢常富で、出羽国久保田藩(現在の秋田県)の定府藩士で江戸留守居役でした。
恋川春町の本名は倉橋 格。戯作者であり浮世絵師でもあります。「金々先生栄花夢」で黄表紙といわれるジャンルを開拓し、黄表紙の祖と評されました。
山東京伝と蔦重の処罰。
狂歌・戯作出版の大きな柱を失った蔦重が頼ったのは若手の人気作家であった山東京伝でした。
黄表紙、洒落本、浮世絵など多彩な才能をみせていた京伝は早くから版元たちの注目の的でした。
しかし、「寛政の改革」の出版統制令は風刺取締を強く打ち出しています。時事的な内容禁止、好色本の絶版、華美で高価な出版物などはその対象です。
やがて山東京伝(さんとうきょうでん)の酒落本が摘発され、手鎖50日、版元の蔦重にも財産の半分を没収という厳罰が下されました。
横浜流星(キャスト)が演じる「べらぼう」「蔦屋重三郎」の復活。
蔦重の経営の危機を救ったのは歌麿でした。その作品は「婦人相学十躰」シリーズ。
歌麿の「婦人相学十躰」
「寛政の改革」後は喜多川歌麿の大首絵(おおくびえ)の美人画や無名の新人絵師東洲斎写楽の役者絵をプロデュースして復活します。
「婦人相学十躰」シリーズは、歌麿が美人画専門の絵師として本格的な活動を始めた頃の作品で、特徴は、モデルを半身像で促える大首絵形式を導入している点にあります。
婦人相学十躰の利点。
利点は二つあります。
1,顔を拡大して描くことになるため。目や眉、口元といった人物の表情を決めるパーツに繊細な変化がつけられ、モデルに生気と現実感を与えられる点です。
2,制作コストの削減です。一時代前の天明期は名所を背景に等身の高い女性を全身像かつ群像で描くことが主流でした。
しかし、背景や人物を多く描く分、堀摺の手間がかかります。歌麿はモデルを一人に絞り、背景を省くことで極力このコストを抑えることができました。
またそれが却ってモデルのしぐさ、着衣、髪型に観賞者の目を向けさせ、そこに含ませたニュアンスから人物の内面を読み取らせる趣向に成功しています。
統制令を回避。
歌麿の「婦人相学十躰」の連作は、華美で高価な出版物を禁止する統制令を回避した上に、新たな女性像を打ち出した画期的な美人画です。
「大首絵形式」は先行して役者絵に用いられていたが、それを美人画に取り入れる発想は、歌麿単独によるものではなく、蔦重のプロデュースによるもとと考えられています。
「べらぼう」ではどのように描くかワクワクしますね。
写楽がデビュー。
豪華な黒雲母摺(くろもらずり)による役者大首絵で、「東洲斎写楽」が蔦屋からデビューしました。
写楽の例もそうですが、蔦重は逆境をものともせず、冷静に時流を読み、かつ人をあっと言わせるものを常に創造してきました。
その挑戦は亡くなるまで続きます。
だからこそ、蔦重が手掛けた作品には普遍的な美しさ、面白さが見いだされていると思います。
写楽をもっと詳しく知りたい方は、「写楽 Sharaku (DVD)」をご覧下さい。
「べらぼう」のあらすじ(ネタバレ)感想のまとめはこちら。
⇒大河ドラマ2025年「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の出演俳優(キャスト)の配役一覧。
横浜流星(キャスト)が演じる「べらぼう」「蔦屋重三郎」の出版界。
江戸の出版文化。
版元の仕事。
まとめ。
大河ドラマ俱楽部の管理人です。
NHK大河ドラマをこよなく愛し毎週楽しみに視聴しています。
ただ視聴するだけでなく「あらすじと感想」を紹介しています。
でもリアルタイムで見ることができない時は見逃し配信で見たり
時々は歴代の大河も視聴しています。
また、管理人の大好きな大河ドラマ出演者の他のドラマや映画を
まとめていますので見逃し配信と一緒に楽しんで下さい。
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