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大河ドラマ2025年「べらぼう」の舞台は「吉原」。蔦屋重三郎が育った「吉原」とは。

2025年べらぼう

大河ドラマ2025年「べらぼう」は蔦屋重三郎(蔦重)の物語です。その蔦重が生まれ育った「吉原」を紹介します。

吉原は、江戸時代に江戸の郊外(現在は東京都台東区)に作られた、幕府公許の遊廓(売春宿)です。

この地をNHKの大河ドラマで描くことが相応しいのか?現代社会において、吉原をいかに表現するか?一層の慎重さが求められますが、その描き方に興味が倍増です。

脚本家の森下佳子に期待ですね。

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大河ドラマ2025年「べらぼう」で描かれる吉原とは。

吉原の生い立ち。

徳川家康は「関ケ原の戦い」の10年前に秀吉の命で天正18年(1590年)関東へと下ります。その後江戸の町の開発に乗り出します。

当時湿地帯だった関東の開発には土木工事が必要で多くの労働力が必要でした。その為全国から男が集まり、男たち相手の売春宿があちこちに出現したのです。

売春宿が多くなれば治安が乱れます。幕府は、女郎屋の経営者たちが相談し、ひとつの場所に公認の遊廓を設置したのです。

元和4年1618年に遊廓が吉原に誕生しました。時の徳川将軍は2代・秀忠でした。

吉原は幕府公認の遊郭。

吉原とは、幕末にいたるまで、江戸幕府公認唯一の遊廓です。

最初は日本橋近く(現在の人形町)にありましたが、江戸が発展していくにつれ、遊廓が町の中心部にあることは好ましくないと幕府から移転を命じられました。

移転費用として1万5000両を与え、人形町時代には禁じていた夜間営業も許可しました。のどかな田園地帯に突如、不夜城のごとき遊廓が誕生したのです。

「闇の夜は よし原ばかり 月夜かな」(闇の夜でも吉原は月が出ているように明るい)

吉原が浅草寺裏に。

明暦3年(1657年)

明暦3年(1657年)の江戸の大火で日本橋が全焼したことで、当時は田園が広がっていた浅草寺裏の日本堤に移転しました。

移転して以降を「新吉原」と呼びました。蔦重が生まれ育ったのはこの新吉原です。

閉鎖的で遊廓という特殊な場所で生まれ育った蔦重は、のちの出版業につながるさまざまな感性や知恵を身につけ、太い人脈を築いきます。

吉原は遊郭?なぜ遊郭と言うのか。

吉原遊郭はその町域が四角く区切られ、当初は幅約9メートルもあった「お歯黒どぶ」がぐるりと四方をめぐっていました。

表向きの出入り口は「大門」一つです。まさしく「くるわ」の体をなしていたのです。

吉原の規模。

およそ2万坪という敷地(およそ東京ドーム2個分ほどの広さ)に、新たな吉原ができました。

敷地の周囲は遊女の逃亡を防ぐために「お歯黒どぶ」の堀が張り巡らされ、原則的に唯一の出入り口となった大門が設置されました。

どぶの数カ所に折りたたみ式跳ね橋を架け、非常口としても機能しています。

常駐の番人が配置されるなど、厳しい監視下のもと、吉原は浅草で再開しました。なお、移転前の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」という。

妓楼は店の規模や在籍する遊女のレベルによって大見世・中見世・小見世と厳密に格付けされています。

当然、揚代(料金)も異なります。

吉原の大火。

明和5年(1768年)から慶応2年(1866年)

吉原は明和5年1768年から慶応2年1866年までのおよそ100年間に、記録に残るだけでも18回、廓が全焼しました。

そのうち少なくとも10回は遊女の放火だと思われます。というのも、劣悪な環境に耐えきれず火付けに及ぶケースが後を絶たなかったのです。

放火は火あぶりの極刑に処される重大犯罪だったにもかかわらず、遊女が死罪となった記録は残されていません。

10人全員が三宅島・八丈島などへの遠島(島流し)でした。あまりに不幸な境遇に、町奉行が情状酌量を示したからと考えられます。

べらぼうで描かれる明和の大火は遊女の放火ではないが、目黒で出火し浅草・千住にまで及んだ類焼範囲の広い惨事でした。

「江戸三大大火」のひとつです。

大火後は仮営業。

大火後は吉原を含めて周辺で商いをしている茶屋などは商売の場所を移さねばなりません。

現在の山谷、両国、深川永代寺門前佃町ですね。

山谷などは吉原にほど近いので格好の場所ですが、両国は約4キロ、深川は約9キロ離れているので商売には適していなかったでしょう。

ただ、両国と深川には岡場所、つまり非公認の売春地区がありましたので、吉原の遊女たちを受け入れやすい土地柄でした。

実際、大火のたびに岡場所があった地を仮宅としています。明和の頃は岡場所の全盛期のようでした。

仮宅での数カ月の営業を経て、蔦重は全焼した吉原の復興に取り組んでいくのです。

非公認の遊里である岡場所の存在。

非公認の遊里である岡場所の存在は無視できません。江戸中期の享保(1716年~36年)頃から隆盛し、それと反比例するように吉原の経営は悪化します。

吉原側は岡場所の取り潰しに精を出しますが、効果は上がらず、遊女の華やかな装いや季節ごとのイベント等に力を入れるようになります。

そのイベントに貢献したのが「べらぼう」で描かれる蔦屋重三郎です。

吉原は江戸の名所。

イベントなどの努力で、吉原は「江戸名所」としての地位を確立させ、物見遊山で足を運ぶ客が増えてきました。

しかし、大金を払って遊女を買うような客の数は戻りませんでした。

一見華やかに見える吉原ですが、その裏には経営不振があり、それにともない遊女の処遇も悪くなっていきます。

大河ドラマ2025年「べらぼう」で描かれる吉原の遊女(女郎)とは。

花魁は江戸のファンションリーダー。


花魁は浮世絵の題材でしたので、おしゃれでトレンドに敏感な江戸の女性からもニーズがありました。

花魁の浮世絵は現アイドルの写真集のようなものです。また、ファッション雑誌としての位置づけもあったのではないでしょうか。

花魁は(禿=かむろ)や(新造=しんぞう)を従えて歩く姿は庶民にとってまさに高嶺の花だったでしょう。

花魁は派手なヘアスタイルと華美な着物を着ていたので、市井の女性は彼女たちの着物を参考にすることもあったと思います。

花魁は教養人。

花魁には教養人(文化人)としての一面もありました。

彼女たちは大名や旗本、豪商を客にし接客するにあたって教養が求められていたのです。華道、香道、茶道、書道、三味線などの芸事にも秀でていました。

花魁は高級遊女(女郎)。

遊女(女郎)の世界も格差があります。「呼出」は当時最高級の遊女です。現在の貨幣価値で揚代は12万5000円位です。

客からの指名を受けると禿(かむろ)や振袖新造(ふりそでしんぞう)を従えて引手茶屋まで客を迎えに行く花魁道中を行いました。

「呼出」の下のランクに当たるのが「座敷持ち」で「座敷持ち」は、客を接待するための座敷を持つ中堅の遊女です。

揚代は5万円位です。花魁道中は行わないが、禿や振袖新造がついて身の回りの世話をします。

遊女(女郎)のランク1(花魁・呼出)。

ここでは「べらぼう」で描かれる女郎のランクです。(名は時代とともに変わります)

この頃の吉原においては「太夫」や「格子」がいなくなり、代わりに三番手だった「散茶」がトップとなります。

最上級クラスの遊女は「花魁」と呼ばれるようになりました。そして、花魁の中でもランクが分かれていました。

最高位にあたるのが「呼出(よびだし)」で、引手茶屋を通して客から指名を受け、禿や新造を引き連れて客を迎えに行きます。

これが「花魁道中」として、一種のパレードのように人々の注目を集めたのです。

遊女(女郎)のランク2(花魁・昼三)。

ランク2は、「昼三(ちゅうさん)」です。その由来は昼見世(昼間の営業)でも揚代が金3分かかったというところです。

「昼三」も客からの指名を受けて茶屋まで出向くスタイルですが、連れて歩く禿や新造の数が呼出よりも少ないようです。

遊女(女郎)のランク3(花魁、座敷持)。

ランク3は、「付廻(つけまわし)」です。揚代が金2分程度の上級遊女で、将来的には昼三になると見込まれていた遊女です。

花魁とみなすかどうかは諸説あるようですが、少なくとも呼出や昼三のように花魁道中を行う権利はありません。

花魁の下にいた「局」と呼ばれていた遊女たちも、「座敷持ち」と「部屋持ち」に分かれていました。

「座敷持ち」というのは、自身が寝起きする部屋のほかに、客の相手をするための座敷が与えられていた遊女です。

遊女(女郎)のランク3(花魁、部屋持)。

部屋持ちは、寝起きする部屋は持っているが、客もその部屋で接待します。

ただし、営業成績や年齢等によって、この2つは(座敷持ち、部屋持ち)昇格・降格が行われていました。

女郎名(演:女優名) 女郎屋
松の井(演:久保田紗友) 松葉屋 「呼出」金1両1分(約12万5千円)
花の井(演:小芝風花) 松葉屋 「呼出」
うつせみ(演:小野花梨) 「座敷持ち」金2分(約5万円)
志津山(演:東野絢香) 「座敷持ち」金2分(約5万円)
誰袖(演:福原遥) 大文字屋 「部屋持ち」金1分(約2万5千円)
かをり(演:稲垣来泉) 大文字屋 「振袖新造」15~16歳頃にお披露目が行われ、初体験を済ませる。金2朱(約1万2500円)
とよしま(演:珠城りょう) 「番頭新造」30歳以上、年季明けも廓に留まり花魁の身の回りの世話をする。
「禿」遊女見習いの10代前半までの少女。客は取らない
「遣り手」遊女を監視・監督する年季明けの年配女性。小言が多く、遊女から煙たがられた。 
朝顔(演:愛希れいか) 二文字屋 「河岸見世」の女郎。最下層の遊女屋
ちどり(演:中島瑠菜) 二文字屋 「河岸見世」の女郎。最下層の遊女屋

完全な階級社会で、トップの「呼出」まで上り詰めることができるのはごく一部です。

吉原で働く遊女(女郎)の人数。

吉原で働く遊女は少ない時期でも3000人程度いたようで、多い時は5~6000人以上いたと言われています。

吉原のそれぞれの遊女屋には遊女を除いても約10名前後の従業員が務めており、その他の家族も含めれば吉原の総人口は遊女の総人数の倍近くになったでしょう。

遊女(女郎)の実態。

遊女屋の実態については確かな資料も少なくほとんどの場合分かりません。

ただ、遊女たちは、ほぼ例外なく貧しい家庭に生まれ、10歳になるかならないかで吉原に売られてきます。

当時も人身売買は禁じられていました。ですので、表向きは親が給金を前倒しで受け取り、「奉公」に出す体裁をとっていたのです。

証文もかわしていたので、逃げ出すことはできません。

遊女(女郎)の仲介業者。

女衒(ぜげん)と呼ばれる仲介業者が貧しい農村を巡って少女を買い集めます。

金額は資料によると、北陸や東北の寒村で、ひとり当たり3~5両だったという記録が残っています。

1両10万円として30~50万円位で仲介の女衒は手数料を上乗せして遊廓に少女を“転売”します。

資料:世事見聞録(1816年)

遊女(女郎)の妊娠。

遊女(女郎)は妊娠も恐れていました。確実な避妊手段もなく、妊娠すれば客が取れなくなるからです。

堕胎は日常茶飯だったそうです。

売れっ子の花魁が妊娠した場合は休業させ、女児が生まれたら禿、男児なら吉原の下働きとして生きる宿命を負っていました。

人権などない時代でその場所である吉原。

遊女(女郎)の境遇や置かれた環境は、「苦界(くがい)」と呼ばれていました。

蔦重はそうした女性たちを多感だった少年時代から間近に見て育ちました。彼が作る本は女郎たちの魂が乗り移っているのです。

遊女(女郎)の病気と死亡。

遊女は27歳で年季明けというルールはありましたが、それまで生き残った者がどれだけいたのかの正確なデータはありません。

劣悪な環境のため結核などで死亡する確率は高かったことでしょう。その他にも性病で命を落とすことも珍しくはありません。

遊女が死ぬと、粗末なむしろにくるまれて、浄閑寺(じょうかんじ / 現・荒川区南千住)の墓地に堀った穴に埋められました。

同寺は、「投げ込み寺」と呼ばれていました。第1話「ありがた山の寒がらす」で愛希れいかさん演じる「朝顔」がその姿を描いていました。

遊女の年季。

大河ドラマ2025年「べらぼう」で描かれる吉原遊女(女郎)屋。

遊女屋(女郎屋)の階層。

遊女がいる遊女屋にもランクがありました。

その規模が格、揚代の相場などによって、「大見世」、「中見世」、「小見世」、「切見世」に分かれています。

大見世にあがるためには、引手茶屋の仲介が必須でした。大見世のなかでも屈指の格式高さを誇ったのが「松葉屋」です。

その他にも「扇屋」、「玉屋」、「丁子屋」、「大文字屋」、「若松屋」がありました。

最下層の遊女屋は「河岸見世」でそこには、年齢や病気、愛想のなさなどさまざまな理由で行き場を失った遊女たちが集まります。

なじみの客でかろうじてにぎわう老舗妓楼に比べ、市中の岡場所(非公認の遊郭)に客を取られ、客足の遠のいた「河岸見世」では常に貧しさと病が蔓延しています。

第1話で描かれた「朝顔」はこの「河岸見世」二文字屋にいましたね。そして病気になって死んでいくのです。

大河ドラマ2025年「べらぼう」で描かれる吉原は文化の華。

吉原の始まり。

天正18年(1590年)、関ケ原の戦いの10年前に徳川家康が入府し、それ以降、江戸は急速に発展します。

旗本や御家人、労働者らが全国から流入し、人口が爆発的に増加しました。

都市の発達とともに江戸に「遊女屋」が発生したのは、上方や駿河で遊女屋を営んでいた者らが、発展を遂げる江戸で一旗揚げようとしたことも関係しているようです。

当時の江戸の男女比率は男性が6割ほどと多く、そこに商機を見出した自然の成り行きだったのですね。

遊女屋の営業について、家康も半ば放任するような発言も残っているようです。

吉原は湿地帯。

徳川家康が関東に移ってきた時の江戸は湿地帯が多くありました。

今でも、皇居(江戸城)の東側はゼロメートル地帯が多く、現代の下町は江戸時代初期までは湿地帯でした。それを埋め立てで街区を拡大していったのです。

遊郭ができた地も、葭(ヨシ)の群生地だったので、葭原と呼ばれました。俗説によれば、縁起担ぎで「吉」の字を当てるようになり、今の「吉原」となったようです。

吉原の移転。

しかし、江戸のど真ん中に遊廓があっては都合が悪いと、明暦2年(1656年)に北へ約6キロほどの場所に移転を命じられ、翌年から営業を再開しました。

現在、酉の市でにぎわう浅草・鷲神社の裏手(現・台東区千束)の辺りです。

大河ドラマ2025年「べらぼう」で描かれる吉原細見。

吉原細見とは。

まとめ。

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